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【港・集落】 フィレンツェ

製造業と交易、金融業により発展した街。金融業で有名になったメディチ家をはじめ、多くの商人と職人が集いその結びつきを強くしている。古代ローマ時代、フロレンティアと名づけられたことから現在の街名になったといわれている。

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フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設されたが、直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者(退役軍人)への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配したが、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、12世紀には自治都市となった。フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。
1300年頃、二つの党派、教皇派・教皇党ネーリ(黒党)と皇帝党のビアンキ(白党)による内乱がはじまった。内乱は終止符が打たれ、敗れたビアンキに所属し、医師組合からプリオリに推されていたダンテ・アリギエーリは1302年、フィレンツェから追放される[4]。この間の事情については、当時のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニが年代記を残している。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。
その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。 メディチ家は金融業などで有力になり、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。14~15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。
1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。彼の死後は、その子ピエロにその権力を継承し、孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。
ロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフローリン金貨は、全欧州の貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。
ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、1494年秋にナポリ王国の回復と称してイタリアを侵略したフランスのシャルル8世に対して20万グルテンの賠償と、かつて征服したピサをフランスに渡すという屈辱的な譲歩をした[5]。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含む一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長ジロラモ・サヴォナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサヴォナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持を失っていった。1498年、サヴォナローラはとうとう民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、1527年ふたたび追放されたが、1531年には復帰し、1569年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となったが、政治的・経済的に次第に衰退した。
1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアのハプスブルク家に継承された。フェルディナンド3世は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあったが、1860年にイタリア王国に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のおさめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。

参考URL:フィレンツェ wiki
# by cluracan | 2012-05-20 22:09 | Discovery

【港・集落】 ローマ

紀元前から存在するイタリア最大の都。
王制、共和制、帝制と長い歴史の中で数多の変遷を遂げ、街中にはさまざまな遺跡が存在する。
コロッセウムもその遺跡の一つである。

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起源
伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられた。ロムルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロムルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる。
考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された。
他にもエスクイリーノの丘やクイリナーレの丘にも集落があったものと思われる。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた。

発展
紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノが作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘にはユピテル神殿が建設された。これら土木・建築様式はエトルリアやギリシアの影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる。
王政ローマ期に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウスの頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である。
共和政ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都として益々ローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる。紀元前312年からはローマ街道の敷設が、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった。

ローマ帝国
ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した。しかし皇帝ネロ統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた。
そしてこの頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝ウェスパシアヌス在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオは石灰石を用いた化粧が施され、剣闘士の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と火山灰を混ぜたローマン・コンクリートが発明され、パンテオンなど様々な建物が次々と建設され、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している。この栄華は皇帝ディオクレティアヌスがニコメディアに遷都するまで続いた。
395年にローマ帝国が東西に分かれた後は、西ローマ帝国に属したが、西ローマ帝国は首都をラヴェンナに置いたためその政治的重要性は大きく低下した。5世紀には西ゴート人やヴァンダル人の掠奪を受けて衰微し、西ローマ帝国も476年に滅亡した。その後は西ローマを滅ぼしたオドアケル、次いで東ゴート王国の支配下に入った。
6世紀中頃、東ゴートは東ローマ帝国に滅ぼされ、ローマは再びローマ領となった。だが、度重なる戦争で荒廃し、歴代の東ローマ皇帝はローマ維持には努めたものの、重要視はしなかった。ローマを訪れた最後の“ローマ皇帝”は663年のコンスタンス2世であるが、この人物以外にローマを訪れた東ローマ皇帝はいない。この時期のローマは、宗教的にはともかく、政治的、軍事的にはラヴェンナ総督府の影響下にあった。
しかし、751年にランゴバルド族の攻撃によりラヴェンナが陥落。ローマも脅かされることになる。ローマ教皇ステファヌス3世は、教義問題で対立する東ローマ皇帝コンスタンティノス5世ではなく、フランク族のピピン3世に救援を求め、結果、東ローマ帝国から独立を果たす。

文化の中心地
この後は『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年にカールによりローマ教皇に寄進されたとされるが、この文書は今日では偽書とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となった。教皇ニコラウス5世の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマはフィレンツェにかわってルネサンスの一大中心地となり、ミケランジェロ、ブラマンテ、ラファエロなどの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、ハプスブルク家の傭兵軍による、いわゆる「ローマ劫掠」によって、この都の盛期ルネサンスは終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇シクストゥス5世の時代で、ポポロ広場から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、フェリーチェ水道を修復した。サン・ピエトロ大聖堂の丸屋根が完成したのもこの時代である。 対抗改革期のローマを特徴づけるバロック様式は、17世紀の建築物に多くみられる。ベルニーニやボロミーニのような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。スペイン階段などにみられる18世紀前半のロココ様式の建物は、やがて新古典主義の建物にかわった。1797年ナポレオン1世はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、ウィーン会議の後、ローマはふたたび教皇領となった。

参考URL:ローマ wiki
# by cluracan | 2012-05-20 22:04 | Discovery

【港・集落】 重慶

読み方は、「チョンチン」。長江上流に位置し、自然に囲まれている街。
夏は酷暑だが、冬は比較的過ごしやすい。この地で、二重の慶事があったことから、この名前が付いたといわれている。

【港・集落】 重慶_e0020973_2110532.jpg


Tradition associates Chongqing with the semi-legendary State of Ba that the Ba people supposedly established during the eleventh century BCE. By 316 BCE, however, it had been overrun by the State of Qin. The Qin emperor ordered a new city to be constructed, which was called Jiang (江州) and Chu Prefecture (楚州).
Chongqing was subsequently renamed in 581 CE (Sui Dynasty) and later 1102, to Yu Prefecture (渝州) and then Gong Prefecture (恭州). It received its current name in 1189, after Prince Zhao Dun of the Southern Song Dynasty described his crowning as king and then Emperor Guangzong as a "double celebration" (simplified Chinese: 双重喜庆; traditional Chinese: 雙重喜慶; pinyin: shuāngchóng xǐqìng). Hence, Yu Prefecture became Chongqing subprefecture to mark the occasion.
In 1362, (Yuan Dynasty), Ming Yuzhen, a peasant rebelling leader, established the Daxia Kingdom (大夏) at Chongqing for a short time.
In 1621 (Ming Dynasty), another short-lived kingdom of Daliang[disambiguation needed ] (大梁) was established by She Chongming (奢崇明) with Chongqing as its capital.
Between 1627–1645, with the fall of the Ming Dynasty, Chongqing, together with the rest of Sichuan, were captured by the Revolts who overthrew the Ming Dynasty across the nation. Later during the Qing Dynasty, immigration to Chongqing and Sichuan took place with the support of Qing emperor.

[機械翻訳]
伝統に関連付けは、Baの人がおそらく十一世紀BCEの間に確立したBaの半伝説的な状態と重慶。
316 BCEで、しかし、それは秦の状態でオーバーランされていた。秦皇帝は江(江州)とチュー県(楚州)と呼ばれていた建設される新都市を命じた。
重慶は、その後、ユー県(渝州)、そして法輪功県(恭州)に、後に1102年581 CE(隋)に改名しました。
それは、1189年に現在の名前を受け取った南宋王朝の王子趙ダンした後に王としての彼の戴冠を説明し、天皇は"二重祭典"(簡体字中国語:双重喜庆、伝統的な中国:双重喜庆、ピンイン:shuāngchóngxǐqìng)としてGuangzong 。したがって、ユー県を記念するために小区、重慶になりました。
1362年には、(元朝)、明Yuzhen、農民反抗リーダーは、短時間に重慶でDaxia王国(大夏)を設立しました。
1621(明王朝)、大良の別の短命の王国[曖昧さ回避が必要](大梁)彼女によって設立された崇(奢崇明)は、首都として重慶である。
1627-1645の間に、明王朝の秋と、四川省の他の部分と一緒に、重慶市は、全国明王朝を倒した反乱によって捕獲された。後で清朝の間に、重慶、四川への移民は皇帝を清朝の支持を得て開催されました。


参考URL:Chongqing wiki
# by cluracan | 2012-05-20 21:24 | Discovery

【港・集落】 雲台山

読み方は、「ユンタイシャン」。春秋時代に越の王・勾践がこの地を首都とした、歴史のある街。平坦な地が続く農作地で、茶の産地としても有名。

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# by cluracan | 2012-05-18 17:38 | Discovery

【港・集落】 杭州

読み方は、「ハンチョウ」。マルコ・ポーロが、美しく華やかな都市だと褒め称えたといわれている街。
文明発祥地の一つで、寺や古跡が多く立ち並ぶ。

【港・集落】 杭州_e0020973_18131249.jpg


杭州市内の余杭区には、新石器時代末期に栄えた良渚文化(前3300年から前2200年ごろ)の遺跡がある。
春秋時代には、初め越に属し、後に呉に属した。東周の顕王35(前334)年、楚が越を滅ぼして以降は、楚に属した。
秦代には会稽郡の管轄とされ、
南北朝時代になると549年(太清3年)、梁により一時期設置された臨江郡の管轄となり、
587年(禎明元年)には陳により銭唐郡が設置されている。
589年(開皇9年)、隋朝は銭唐郡を廃止して杭州を設置、杭州の地名の所見である。
その後余杭郡と改められ、
唐代になると再び杭州、余杭郡、
そして758年(乾元元年)以降は杭州の名称が清末まで使用されることとなった。
杭州は隋代に建設された大運河(江南河部分)の南端とされ、
唐代には南北を連絡する運河が整備され、貨物の集散地とし発展、
貞観年間(627年-649年)には人口が15万人であったものが、
開元(713年-741年)には58万人を数え、広州、揚州と並ぶ経済の中心となった。
また822年(長慶2年)には白居易が杭州刺史として赴任、西湖の大規模水利事業を行っている。
五代十国時代に呉越の都となり西府と称した。呉越は杭州城壁の拡大、銭塘江の堤防整備などの水利事業を行っている。
北宋が成立すると杭州は両浙路の路治が設置され、1107年(大観元年)には杭州府に昇格した。当時は20万戸を数える江南地区最大の都市となっていた。
1089年(元祐4年)には蘇東坡が杭州知州に任じられ、西湖の浚渫事業、推理事業を行っている。南宋になると杭州はその全盛期を迎え、呉自牧により『夢粱録』に当時の杭州についての記録が残されている。
1129年(建炎3年)、行宮が杭州に置かれると杭州府は臨安府と改称、
1138年(紹興8年)には正式な遷都が行われ、杭州は宋朝の政治・経済の中心地となった。また都城の防衛のために城壁の拡張工事が行われている。国都となった臨安府の人口は急増し、咸淳年間(1265年-1274年)には124万人にまで増加している。
1276年(至元13年)、宋朝を滅ぼした元朝により杭州路が設置された。
1341年(後至正元年)杭州城内で大規模な火災が発生し15,755軒を消失、元末に杭州城は大規模な再建事業が実施された。
1358年(至正18年)、張士誠による杭州城再建が行われ、周囲64,020尺、高さ30尺、厚さ40尺というそれまでの規模を上回る杭州城を再建している。
元代の繁栄の有様は、マルコ・ポーロが「キンザイ(=行在)」として『東方見聞録』で記している。
元末の動乱期、軍事作戦を進める朱元璋は杭州行省を設置している。元末には度重なる戦火により杭州城にも被害が及び経済は衰退、西湖も泥土の堆積により農業灌漑に支障を来たすなどの被害を受けた。
明朝が成立すると杭州府が設置され江南の経済中心地として発展し、織物業や茶葉の生産などによって栄え、蘇州と並ぶ江南の大都市となった。西湖の周辺には多くの寺院や道観、別荘や庭園が集まり、多くの文人墨客が訪れている。また霊隱寺などは近接地域から多くの参拝者を集める文化都市としても発展していた。

参考URL:杭州市Wiki
# by cluracan | 2012-05-17 18:18 | Discovery


大航海時代onlineの1プレイヤーの日記


by cluracan

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