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 このサイトは大航海時代onlineの日記がメインです。
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Name:クルランシー
Server:Zephyros
Country:ポルトガル ヴェネツィア
Sex:外見は♀、中身は♂
Age:?_?
Company:エスペランサ・フロンティア

The name is Clurancy

狂嵐の詩

我は行く、荒れ狂う嵐の海を
我は行く、凍てつく吹雪きの海を
我は行く、まだ見ぬ黄金の国を求め東へ
我は行く、見果てぬ新しき大地を求め西へ
おぉ神よ、我は大海原に浮かぶ一枚の木の葉の如き存在なれど
おぉ神よ、貴女が創り賜うたこの世界を確かめずにいられない

我は想う、古に栄えたと云う古代の王国を
我は想う、新しき大地で喜ぶ未来の子を
我は想う、伝説に語り継がれし動物を
我は想う、深海に眠りし秘宝の数々を
あぁ神よ、我は一粒の砂の如き微小な存在ゆえに
あぁ神よ、私は見果てぬ世界を夢見ざるをえないのだ
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# by cluracan | 2012-12-31 18:00 | Top

メモリアルカップ大海戦

久々に大海戦に参加しました。
前回出陣した時とルールが変更されていて複雑になっていました。

1. 他国と同盟を結んで共闘できるようになりました。これでヴェネツィアもイスパニアと一緒に参戦できます。
2. 小型、中型、大型と船のサイズによって階級分けされていました。
3. 要塞という新しい概念が増えていました。要塞を構築したり破壊することでも戦闘に貢献できるようになりました。

あと、今回たまたまだったのかも知れませんが、台風が起きませんでした。これは素直に喜ばしい♪

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メモリアルカップ大海戦_e0020973_2347152.jpg


さて、メモリアルカップということで、サーバー対抗の結果はどうなるかな?
# by cluracan | 2012-05-27 23:47 | Diary

【港・集落】 グァテマラ

太平洋に面した中米の港街のひとつで、コーヒーの産地として知られる。
沿岸の熱帯低地と、内陸の高原地帯では気温の差が激しい。

【港・集落】 グァテマラ_e0020973_15153349.jpg


先コロンブス期
紀元前1800年頃に太平洋岸にバラ相の土器文化が興り、テコマテと呼ばれる祭祀に用いられたと考えられる無頸壺の器形で知られる。バラ相にメソアメリカ最古に属する土偶も作られた。先古典期中期初頭の紀元前900年頃に、パシオン川流域のセイバルとアルタル・デ・サクリフィシオスに集落が形成された。やがて、先古典期中期後葉になるとナクベに高さ18mに達する大規模な建物が造られた。一方、南部の高地にはカミナルフューにラス・チャルカスの精巧な土偶を伴う文化が興った。
先古典期後期には、紀元前500年以降には、ペテン低地にワシャクトゥンやエル・ミラドールなどのマヤの大規模な都市が出現する。南部の高地には、イサパ文化の影響を受けた石碑を伴うアバフ=タカリク、エル=バウル、カミナルフューなどの祭祀センターがきずかれた。古典期には、378年にティカルにメキシコのテオティワカンゆかりの強力な王朝が建てられ、メキシコ、カンペチェ州のカラクムルと「優越王」として覇を争うようになる。古典期になるとカミナルフューもテオティワカンに征服される。エル=バウルを含めた周辺区域にはナワ語系のピピル族によると言われるコツマルワパ様式の祭祀センターが築かれた。後古典期にはいると、11世紀頃から北方のチチメカ人が侵入してきた。その影響を受けてキチェー王国やカクチケル王国にチチメカ様式の影響を受けた都市が築かれた。
10世紀初頭までにペテン低地の祭祀センターは放棄されたが、グアテマラ高地のマヤ系諸王国はスペイン人に征服されるまで存続した。

スペイン植民地時代
1492年にクリストーバル・コロンがアメリカ大陸を「発見」すると、現在のグアテマラに相当する地域にもヨーロッパ人の征服者が訪れた。1523年に現れたスペイン人の征服者、ペドロ・デ・アルバラードは、1524年にはこの地域を征服した。アルバラードはカクチケル族の協力を得て、グアテマラの地を支配していたキチェー族の都クマルカフ(ウタトラン)を1524年に攻略し、カクチケル族の都イシムチェに本拠地を構えた。だが、カクチケル族との同盟関係はごく短い期間で決裂し、カクチケル族は都を放棄して征服に抵抗するようになった。1526年に脱走兵の放火によってイシムチェは破壊され、アルバラードは現在のシウダー・ビエハに新しい首都を建設。さらに、イシムチェの近くにあるテクパンに都を移したが、1541年7月にアルバラードは死に、同1541年9月にアグア火山の噴火によってテクパンは壊滅してしまう。その後、現在のアンティグア・グアテマラが首都となった。
1544年、スペインはグアテマラ総監領をおき、自治権を与えた。グアテマラ総監領の統治範囲には諸説があり、現在の中米五国ホンジュラス・エル・サルバドル、ニカラグア、コスタリカなどを含んでいた。スペイン人征服者の政策により、先コロンビス・マヤ文化の古文書(Pre-Columbian Maya codex)はほとんどがこの植民地時代に焼却されたが、辛うじてポポル・ヴフ(Popol Vuh)と呼ばれるキチェー族の創世神話が現在に伝わっている。
1717年に起きたマグニチュード7.4の地震はアンティグア・グアテマラに甚大な被害をもたらし、さらに1773年でも地震で大きな被害が出たため、1776年にスペイン国王の命により首都はグアテマラシティへと移ることになった。1786年にはスペインからイギリスにカリブ海側の領土が割譲された。この地域は英領ホンジュラスとして統治され、現在はベリーズになっている。

参考URL:グアテマラ共和国Wiki
# by cluracan | 2012-05-25 15:17 | Discovery

【港・集落】 パリ

セーヌ川の中州であるシテ島から発展したとされる街。シテ島を囲むように城壁が築かれそれが拡大されて現在のパリとなった。気候は比較的温暖である。

【港・集落】 パリ_e0020973_153875.jpg


語源
語源はパリシイ(パリースィイ) Parisii(複数形。単数形は Parisius 「田舎者、乱暴者」)で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称である。欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではΠαρίσι(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリジ)と発音される。フィンランド語で Pariisi(パリースィ)と発音されるのはここからだという説がある。ルーテティア(・パリースィオールム) Lutetia (Parisiorum) 「パリシイ族の、水の中の居住地=シテ島のこと」とも呼ばれていた。

古代
セーヌ川の中洲シテ島は古くからセーヌ川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。
紀元前1世紀、ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場の遺跡が残っている。しかしローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。

フランス王国首都
5世紀末にフランク族の王クロヴィス1世はパリを征服し、
508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。
885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このときフランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代ってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。
西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。
王権の強化にしたがって首都も発達し、フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁が築かれた。このころのパリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学はヨーロッパ最古の大学のひとつであり、特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル (Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。
12世紀にはパリ水運商人組合が結成された。後にその商人頭は事実上の市長として市政を司るようになり、エティエンヌ・マルセルのように王に匹敵する権力を持つものも現れた。市の規模が大きくなるにつれ、城壁は何度か壊され市域が拡大していった。
百年戦争後半にはパリはオルレアン派とブルゴーニュ派の対立で混乱に陥った後、イングランドと同盟したブルゴーニュ公の支配下に入った。
しかし1436年にはフランス軍に奪還され、翌1437年、シャルル7世は改めてパリをフランスの首都と定めた。しかしこの後もフランス王はパリには住まず、ロワール渓谷の城を好むようになった。ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こった。
アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。これ以降パリ市内ではテュイルリー宮殿、リュクサンブール宮殿、廃兵院などの大規模建築が相次いで作られた。しかしルイ14世はパリ郊外のヴェルサイユに造営した離宮に政治の本拠を移し、ルイ16世の治世の末期までヴェルサイユが政治の中心となった。
1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。

参考URL:パリ wiki
# by cluracan | 2012-05-21 15:45 | Discovery

【港・集落】 オクスフォード

ロンドンの北西に位置する学問都市。
羊毛の集散地として栄えていたが、8世紀に女子修道院が創立された。12世紀には学者たちが集まり出し、学問の都として発展した。

【港・集落】 オクスフォード_e0020973_1532124.jpg


オックスフォードはサクソン時代に人が居住しはじめ、最初は古英語でオクサンフォルダ(Oxanforda)として知られた。oxanforda とは雄牛(oxen)が渡ることのできる浅瀬(ford)の意味である(イギリスに多くある地名の「~フォード」は、浅瀬・渡場の ford に起源がある。ドイツ語地名の「~フルト」(furt)に対応する)。8世紀に聖フリデスウィデ(Frideswide)の女子修道院の創設と共に都市としての歴史が始まる。最初の文書記録としては『アングロサクソン年代記』の912年の記述で言及されている。10世紀になるとオックスフォードは、マーシア王国とウェセックス王国の間の軍事上の拠点として重要な意味を持つようになり、数度にわたりデーン人の侵攻を受けた。
オックスフォード大学は、12世紀の記録で初めて言及されている。オックスフォードの最古のカレッジ(学寮)は、ユニバーシティ・カレッジ、ベイリョール・カレッジ(1263年)、そしてマートン・カレッジ(1264年)である。
オックスフォードのクライスト・チャーチ大聖堂(Christ Church Cathedral)は、一つの教会が大学の聖堂と司教座聖堂を兼ねているという、世界でも例を見ないユニークな聖堂である。もともと聖フリデスウィデの修道院聖堂であったが、建物が拡張され、カーディナルズ・カレッジの一部に組み込まれた。その後、1546年にクライスト・チャーチ大聖堂として再び独立した建造物となった。以降、現代に至るまでオックスフォード教区の司教座聖堂となっている。
「タウン(町)とガウン(学生)」の間の関係はしばしば悪化することがあった。たとえば1355年の「聖スコラスティカの日の暴動」といわれる事件では、数人の学生が市民の手で殺害されている。
清教徒革命(1642年 - 1649年)の間、オックスフォードはロンドンを追放されたチャールズ1世の宮廷を迎えていた。オックスフォードの町には議会派への強い支持が存在したが、王の宮廷は維持された。町は1646年にフェアファックス将軍指揮下の議会派勢力に屈した。
1790年には、オックスフォード運河が市をコヴェントリーに結び、テムズ川へと連結させた。1840年代には「大西部鉄道」(Great Western Railway)と「ロンドン及び北西部鉄道」(London and North Western Railway)が、オックスフォードとロンドンを繋いだ。

参考URL:オックスフォード Wiki
# by cluracan | 2012-05-21 15:37 | Discovery


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