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【港・集落】 リューベック

かつて、ハンザ同盟の中心都市として、「ハンザの女王」と呼ばれた街。非常に繁栄していたが、近年はアムステルダムなどに押されて、かつての勢いはない。鉱山資源が豊富にあるほか、塩が特産である。

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バルト海に面する北ドイツの代表都市。かつてはハンザ同盟の盟主として繁栄を誇った。正式名称をハンザ都市リューベック(Die Hansestadt Lübeck)という。

1143年、ホルシュタイン伯のアドルフによって建設された。
一旦火事で荒廃したものの、ザクセンのハインリヒ獅子公によって再建された。北海・バルト海交易で一時期独占的な地位を築いたハンザ同盟の盟主でもあった。リューベック商人は、ノルウェーのベルゲンに商館を築き、ノルウェーの鱈を南に売却して大きな利益をあげた。また、リューネブルクの岩塩をおさえたことで、塩漬け鰊(ニシン)でも独占的な地位を誇った。近世にはいると、ハンザ同盟の衰退とともに、リューベックも衰退していった。

参考URL:リューベックWiki
# by cluracan | 2012-04-24 22:43 | Discovery

【港・集落】 リマ

ヨーロッパ人がインカ帝国調査の足掛かりとして作った開拓地。数多くの航海士がこの街を訪れ、交易の拠点ともなっている。

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インカ帝国の支配が及ぶ前の先コロンブス期には既に現在のリマの場所にはいくつかのアメリカンインディアンのグループが居住していたと考えられており、大地神パチャカマックを信仰するイチマ文化を形成していた。
3世紀から8世紀ごろにかけてルリン河谷のパチャカマを中心に発展したもので、この地にはいくつかの独特な遺構が残されている。
インカ時代に入ると巨大な太陽神殿や月の館が建設され、宗教的な中心地の役割を果たすようになった。
1535年1月18日に、インカ帝国を征服したスペイン人のフランシスコ・ピサロらコンキスタドーレス一行は、リマック川右岸のリマの首長、タウリチェスコの館で、スペイン式の儀式に基づいて「副王たちの都」("La Ciudad de los Reyes")を創設した。場所の選定として最初はアンデス山脈中腹のハウハが候補に上ったが、高度と海路交通の不便さなどから見送られ、太平洋に面したリマク川の畔のリマの地が選定された。
1542年にリマはペルー副王領の首都に指定され、ヌエバ・エスパーニャ副王領のメヒコ市と共に、それまでのイスパニョーラ島のサント・ドミンゴに代わってアメリカ大陸におけるスペイン植民地支配の中心地となった。
16世紀から17世紀を通して、リマはスペインによる南米植民地支配の拠点として、アルト・ペルーのポトシや銀山の銀がヨーロッパに輸出されるための中継地点となったことで栄えた。
1551年には南米最古の大学であるサン・マルコス大学が創設された。
1614年には人口は25,000人を数えており、リマの発達と共に都市文化が栄え、サン・フランシスコ教会やトーレ・タグレ邸などの華やかな建築物が建造された。
1687年と1746年の大地震は多くの建築物を破壊したが、リマの栄華は失われなかった。
1761年に着任した副王アマトは大規模な都市計画や演劇の振興を行い、知識人の文化が栄えた。一方リマにはアフリカから連行された奴隷や、都市に流入した先住民系の住民、メスティーソなどの人々も存在し、白人上流階級の文化とは別に彼等独自のクレオール文化が育まれた。

参考URL:リマWiki
# by cluracan | 2012-04-23 21:06 | Discovery

【港・集落】 リスボン

フェニキア人によって築かれた、古い街。イスラム勢力に支配された時期に大きく発展して、重要な港として栄えるようになった。西ヨーロッパでもっとも美しい街だとされる。良質の陶磁器が製造されている。

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リスボンは古代からフェニキア人(カルタゴ人)などにより港として利用されてきた。当時はフェニキア語でアリス・ウボと呼ばれた。紀元前のギリシア人の集落跡が出土している。大プリニウスは『博物誌』でリスボンの創健者をオデュッセウスであるとしている。
紀元前205年にローマの支配下に入り、オリピソの名で知られる。
紀元前48年にはガイウス・ユリウス・カエサルによりローマ都市の資格を与えられ、フェリキタス・ユリアと改名。属州ルシタニアの首都となった。
719年にイスラム教徒であるムーア人に占領される。
以後1147年に最初のポルトガル国王アフォンソ1世がイスラム教徒より支配権を奪うまでイスラム教徒に支配された(リスボン攻防戦)。
1260年には、アフォンソ3世がコインブラから遷都し、ポルトガル王国の首都となった。
12世紀にはパドヴァのアントニオがリスボンから出た。この修道士がしばしばリスボンのアントニオとも呼ばれるのはこのためである。パドヴァのアントニオはポルトガルの守護聖人のひとりとみなされている。
15世紀はじめには大航海時代の幕開けとともに、世界貿易の中心都市となって35万人の人口を有し、当時の世界最大級の都市となった。
しかし1531年にはリスボン地震で被害を受け、
また1569年にはペストにより6万人の死者を出した。
1755年、リスボン大地震で市民の3分の2にあたる約6万人の死亡者を出した(地震の被害者総計は約9万人から10万人といわれる)。市内は津波と火災により多くの家屋も損傷し、リスボン市のみならずポルトガルの国内経済にも影響を与える甚大な被害を受けた。市内はのちにポンバル侯爵の設計で再建された計画都市となった。

参考URL:リスボンWiki
# by cluracan | 2012-04-23 20:33 | Discovery

【港・集落】 リガ

13世紀初めに、ドイツ騎士団によって築かれた街。バルト海に面しており、ロシア地方との重要な交易拠点。重要な産物は多種の鉱物と羽毛である。

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リガの記録は既に2世紀には見られる。長くヴァリャーグによる東ローマ帝国への交易ルートとして、ダウガヴァ川は古来より利用されており、河口から15キロに広がるリガは、天然の良港であった。リガという名称もリヴォニア語の「円」という意味から由来する、とされる。(港の形状が円形だった。)
12世紀までには交易だけでなく漁業や畜産の拠点となり、ドイツ人商人の入植も12世紀半ばから盛んになる。
教皇インノケンティウス3世の命を受けたシトー会のアルベルトが、1200年に北方十字軍を組織しリヴォニアに侵攻、23隻の軍艦と1500人の十字軍兵でリガを制圧し、リーヴ人の服属と改宗を行った。
1202年に、アルベルトは、リヴォニア帯剣騎士団をリガで創立。以降、リガはバルト海とロシアの中継貿易拠点として重きをなしてくる。
1282年にはハンザ同盟に加盟。経済発展の地歩を固めるが、同時にリガの繁栄は侵略者を招くこととなる。1522年には、プロテスタントを受容。1561年のドイツ騎士団の解散で、それ以後の20年間は帝国自由都市となる。
1581年から、リガはポーランド・リトアニア共和国の支配を、1621年からはグスタフ2世アドルフのスウェーデン王国の支配を受ける。リガはスウェーデン王国最大の都市であった。18世紀に大北方戦争が起こると、ロシアのピョートル1世がリガに侵攻、スウェーデン時代は終焉を迎える。

参考URL:リガWiki
# by cluracan | 2012-04-22 14:52 | Discovery

【港・集落】 リオデジャネイロ

16世紀初頭、探検家ガスパール・デ・レモスによって発見され、大きな湾を河口と間違えて「一月の川」を意味する「リオデジャネイロ」と名づけられた。

【港・集落】 リオデジャネイロ_e0020973_14432059.jpg


1502年1月にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスたちがグアナバラ湾の湾口であるこの地に到達。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名した。ポルトガル人たちは海岸に壁を白く塗った家を建てて住んだ。先住民のトゥピ族は彼ら白人を「カリ・オカ」(トゥピー・グゥアラニー語で白い家の意味)と呼んだ。それが現代語のカリオカの起源である。
1555年にフランスの植民地開拓者が南極フランス居留地をつくったが
1567年にこれをポルトガル人は追い出し、18世紀までここに小さなコミュニティをつくっていた。町の名は川(実は湾)の名の転用である。
17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかった。
しかし18世紀前半に内陸のミナスジェライス州周辺で金鉱が発見された。この金の集散地は、当初は金鉱発見者であるバンデイランテスたちの基地であるサンパウロであったが、
1725年にリオとミナスジェライスを結ぶ新道が開通すると、距離的に近いリオがサンパウロに代わってミナスの金やダイアモンドの積出港となり、ブラジル植民地の交通と富の中心となった。このためそれまで栄えていた北東部から南東部への重心の移動が生じ、
1763年にはブラジル総督がサルヴァドール・ダ・バイーアからリオにうつされブラジル植民地首府となった。
1808年に半島戦争の勃発により、リスボンのポルトガル宮廷はナポレオン軍を逃れてリオに移転した。
翌1809年、リオがポルトガル・ブラジル連合王国の首都となる。これによりリオは人口も増加し、また高い文化を持った移住者たちによって文化も進歩した。
1821年には王の帰還と共に首都もリスボンに再遷都されたが、ポルトガルがブラジルの統治に軍を送り込んだためブラジル側の憤激を買い、独立派はリオに残っていた王太子ドン・ペドロを擁立して
1822年にブラジル帝国の独立を宣言し、リオはブラジル帝国の首都となった。

参考URL:リオデジャネイロWiki
# by cluracan | 2012-04-22 14:48 | Discovery


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