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【港・集落】 ナポリ

紀元前、ギリシャ人によって築かれた歴史ある街。かつては「新しい街」を意味するネアポリスと呼ばれた。今も、地中海の中央部に位置するため地中海交易の重要な拠点である大都市だ。

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紀元前6世紀 古代ギリシア人(特にアテネ人)の植民活動によって建市されたと考えられている。「ナポリ」の語源はギリシア語の「ネアポリス」(新しいポリス)であり、最初に建設された植民都市パルテノペから数キロはなれた場所に新しく建設された町という意味である。
その後、ナポリは長くローマ帝国の支配下にあったが、476年の西ローマ帝国滅亡後、南イタリアは東ゴート族やランゴバルド族の支配が及ぶなど流動的な状況となった。
6世紀になると、東ローマ帝国のユスティニアヌス1世がイタリアの再征服に乗り出し、イタリア半島はラヴェンナを首府とするビザンツ帝国の属州となった。
660年 ナポリ市にはビザンツ系の公国が設置されている。
11世紀 ノルマン人が南イタリアに到来し、イスラム教徒が支配するシチリア島を征服してシチリア王国(オートヴィル朝)を建国するが、ノルマン人の支配は南イタリアでも拡大され、ナポリ公国も1140年ノルマン人の手に落ちた。
12世紀 シチリア王国は婚姻関係によってホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝の支配に移った。1224年 異色の皇帝フェデリーコ2世(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)がナポリ大学を設立した。
フランスの王族シャルル・ダンジューによりホーエンシュタウフェン家のシチリア支配が断絶すると、ローマ教皇クレメンス4世は1266年、シチリア王国をシャルル・ダンジューにあてがい、アンジュー家は王国の首都をパレルモからナポリに遷都した。
しかし1284年、シチリアの晩鐘事件を契機にシチリア島で反乱が起こると、アラゴン王ペドロ3世がシチリアを占領するが、ナポリを中心とする南イタリアはアンジュー家が依然として押さえていたので、王国は2つに分割された。2つの王国は共に「シチリア王国」を公称していたが、この時にナポリ王国が成立したと見ることができる。
トラスタマラ家のアラゴン王アルフォンソ5世はシチリア王を兼ねていたが、内紛続きのナポリ王国を征服して、1443年にナポリ入りし、2つの「シチリア王国」の王を兼ねた。アルフォンソはアラゴン王であるにもかかわらず、ナポリに長く滞在して統治した。1458年のアルフォンソの死後は私生児のドン・フェランテがフェルディナンド1世としてナポリ王位のみを継承するが、失地回復をめざすフランス・ヴァロワ朝のシャルル8世がこれにつけ込んで、1494年にナポリを武力占領した。これに対してスペイン(カスティーリャ=アラゴン連合王国)から派遣されたコルドバ将軍は、1503年にナポリを征服し、フランス軍を南イタリアから追放した。ナポリ王家は取り潰され、スペインのナポリ総督によって支配される属州となった。
スペイン継承戦争(1701年 - 1714年)のさなか、1707年にオーストリア・ハプスブルク家の軍隊がナポリに入城し、スペインの総督は追い払われた。オーストリアの支配は1734年まで続く。ポーランド継承戦争が起こると、フランス・ブルボン家はスペイン・ブルボン家の支援を求め、1734年にスペイン王子でもあるパルマ公ドン・カルロスがナポリに入城してナポリ王カルロ7世として即位、シチリアも回復した。カルロスは1759年にスペイン王カルロス3世として即位した際、ナポリ王位を息子のフェルディナンド4世に譲った。この1734年をもって両シチリア王国の成立とする見方もある。ただこの時は正式名称としては使用されなかった。

参考URL:ナポリWiki
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by cluracan | 2012-03-14 15:27 | Discovery

【港・集落】 ナッソー

フロリダ半島の南、西インド諸島北部ニュープロビデンス島の街。西インド諸島と呼ばれるのは、15世紀末、クリストバル・コロンの航海により発見されたがインドと誤認されたため。

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ナッソーは当初、チャーチル・タウンとして設立された。
後にオラニエ=ナッサウ家(英語ではOrange-Nassau)出身のウィリアム3世にちなんでナッソーと名づけられた。

参考URL:ナッソーWiki

1492年10月12日 先住民のアラワク族が定住していた土地に、イタリア人クリストファー・コロンブスが到達。上陸した島がサン・サルバドル島(サマナ島と言う島だと言う説もある)と名づけられた。これがコロンブスによる新大陸の発見となる。
コロンブスの開いたスペインからバハマのルートを通って、多くのヨーロッパ人がやって来ると、島に居た先住民のインディオは強制労働やヨーロッパ人が持ち込んだ疫病などで死に絶えてしまった。16世紀には絶滅してしまったインディオの代わりにアフリカから初めて、奴隷として多くの黒人がバハマ諸島に連れて来られた。
1647年にイギリスが植民地化を開始する。
1718年にイギリスは、「黒髭」と呼ばれたエドワード・ティーチ (Edward Teach) をはじめとする海賊たちの拠点だったバハマに対し、ウッズ・ロジャーズ (Woodes Rogers) を初代総督(Royal Governor of the Bahamas) に任じ掃討を命じた。
1783年、ヴェルサイユ条約において正式にイギリス領と認められる。
1776年に、アメリカ独立戦争から逃れようとしたイギリス王党派が、多くの黒人奴隷を引き連れて移り住む。
1782年から83年にかけて、スペインに占領される。しかし、領有権を取り戻したイギリスは、その年に奴隷を解放。

参考URL:バハマWiki
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by cluracan | 2012-03-13 12:15 | Discovery

【港・集落】 ナタール

インド洋に面した、アフリカ南部沿岸に位置する港町。ナタールとはポルトガル語でクリスマスという意味である。

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クワズール=ナタールのダーバンのことと思われる。
1497年12月25日 ヴァスコ・ダ・ガマが南アフリカ東部(現在のダーバン)に上陸し、「リオ・デ・ナタール」と命名する。(オランダ語でクリスマス)

参考URL:南アフリカ共和国年表Wiki
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by cluracan | 2012-03-12 18:19 | Discovery

【港・集落】 トレビゾント

黒海南岸に位置する街である。過去には独立した帝国だった。農業に適した気候で耕作・畜産・漁業いずれも盛んである。

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トラブゾン(Trabzon)は黒海沿岸のトルコの都市。古くはトラペズス(Trapezous, Τραπεζούς)、トレビゾンド(Trebizond)とも呼ばれた。

紀元前7世紀 ギリシア人によって交易都市として建設された。
ポントス王国、ローマ帝国の支配下において繁栄する。とくに、ペルシアやメソポタミアへの通商路の基点として重要な都市となった。
258年 ゴート人に破壊された後は衰えた。
その後は東ローマ帝国の地方都市となった。
中世にはテマ(軍管区。中世東ローマ帝国の地方行政単位)-カルディアの首府としてポントス地方の中心都市となった。
1204年 第4回十字軍によるコンスタンティノポリス占領の際、コンスタンティノポリスから逃れたアレクシオス・コムネノス(東ローマ皇帝アンドロニコス1世コムネノスの孫)が、グルジア女王タマルの支援を受けて、トラブゾンを首都とした亡命政権トレビゾンド帝国を建てた。領土は限定的であったが、グルジア王国や白羊朝(アク・コユンル朝)などと姻戚関係を結ぶことで政治的独立を維持し、トラブゾンは交易港として栄えた。1461年 トレビゾンド帝国はオスマン帝国のメフメト2世によって滅ぼされた。

参考URL:トラブゾンWiki

トレビゾンド帝国(トレビゾンドていこく、Trebizond, 1204年 - 1461年)
1204年 東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍によって陥落させられた際に、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権の一つ。トレビゾンドを首都とした。
1204年4月、東ローマ皇帝アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年 - 1185年)の孫アレクシオス・コムネノスがトレビゾンドを占領して建国。コムネノス王朝(1081年 - 1185年)の本流を継ぐものとして、「メガス・コムネノス(大コムネノス家)」と称した。しかし実際は、建国に尽力したグルジア王国の傀儡にすぎなかった。
当初は東ローマ帝国の亡命政権の中では最初にコンスタンティノポリスを奪還する勢いであったが、他の亡命諸侯との連携を欠いたため、同じ亡命政権のニカイア帝国やトルコ人のルーム・セルジューク朝に敗北し、小アジア北東部・ポントス地方の地方政権に転落してしまった。しかし、東ローマ帝国滅亡後の1461年にオスマン帝国によって滅ぼされるまで約250年間存続し、史上最後の東ローマ系国家となった。国家としてはあまり強大ではなかったが、東西交易路の途上に位置するその地理的状況はこの国に多くの富をもたらし、また周辺のグルジア、アルメニアなどのキリスト教文化圏との交流も盛んであった。外交上は東方のイスラーム諸勢力、特に白羊朝ペルシアと婚姻関係を基にした同盟関係を結ぶなどして独立維持を図っている。
東ローマ世界の飛び地として、この帝国でもギリシャ正教の文化が継続し花開いた。首都トレビゾンドに残る聖ソフィア聖堂、ポントスの山中に創立されたスメラ修道院(現在は廃院)などがその代表的な姿を今に伝えている。
このトレビゾンド帝国の国民の末裔であるギリシャ系の人々は、他のギリシャ人居住地域から切り離されたままオスマン朝の治下でも暮らしを続け、後にポントス人と呼ばれることになる。

参考URL:トレビゾンド帝国Wiki
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by cluracan | 2012-03-12 17:12 | Discovery

【港・集落】 トルヒーヨ

カリブ海ホンジュラス湾に面した街で、クリストバル・コロンが4度目の航海で発見。「ホンジュラス」はスペイン語で「深み」を意味し、コロン提督が上陸の際、碇を下ろしたが海底まで届かなかったことに由来する。

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Christopher Columbus landed in Trujillo on August 14, 1502, during his fourth and final voyage to the Americas. Columbus named the place "Punta de Caxinas". It was the first time he touched the Central American mainland. He noticed that the water in this part of the Caribbean was very deep and therefore called the area Golfo de Honduras, i.e., The Gulf of the Depths (see: Bay of Honduras).
The history of the modern town begins in 1524, shortly after the conquest of Mexico by Hernán Cortés. Cortés sent Cristóbal de Olid to find a Spanish outpost in the region, and he established a town named Triunfo de la Cruz in the vicinity. When Olid began using the town as his base for establishing his own realm in Central America, Cortés sent Francisco de las Casas to remove him. Las Casas lost most of his fleet in a storm, but he was nevertheless able to defeat Olid and restore the region to Cortés. Upon assuming control, Las Casas decided to relocate the town to its present location, because the natural harbor was larger. At the same time, Triunfo de la Cruz was renamed Trujillo. His deputy, Juan Lopez de Aguirre was charged with establishing the new town, but he sailed off, leaving another deputy, named Medina, to found the town.
Cortés himself visited the town shortly after, during a campaign to suppress the internecine fighting between his followers. It was he who sent ships to established Spanish colonies in Jamaica and Cuba for saplings, seed, and domesticated animals that could be raised there. In the coming years, however, Trujillo became more important as a shipment point for gold and silver mined in the interior of the country. Because of its sparse population, the city also became a frequent target of pirates.
Under Spanish rule Trujillo became the capital of Honduras, but because of its vulnerability the capital was changed to the inland town of Comayagua. The fortress, Fortaleza de Santa Bárbara (El Castillo), which sits on the bluff overlooking the bay, was built by the Spanish around 1550. Nevertheless, it was inadequate to really defend Trujillo from pirates--the largest gathering of pirates in history took place in the vicinity in 1683--or rival colonial powers: the Dutch, French, and English. The town was destroyed several times between 1633 and 1797, and during the eighteenth century, the Spanish all but abandoned Trujillo because it was deemed indefensible.

(機械翻訳)
クリストファー·コロンブスは、アメリカ大陸への彼の四番目で最後の航海中に、1502年8月14日にトルヒーヨに上陸した。コロンブスは場所 "プンタ·デ·Caxinas"と名付けました。それは彼が中央アメリカ本土に触れた初めてでした。彼はカリブ海のこの部分の水が非常に深かったため、エリアゴルフォ·デ·ホンジュラス、すなわち、深湾(:ホンジュラス湾を参照)と呼ばれることに気づいた。
現代の町の歴史は、まもなくエルナン·コルテスによってメキシコの征服した後、1524年に開始されます。コルテスは、クリストバル·デ·を送信したメリアオリッ地域のスペイン語の前哨基地を見つけるために、彼は近くでトリウンフォ·デ·ラ·クルスの名前の町を設立しました。メリアオリッ中央アメリカで自分の領域を確立するための彼の基地として町を使用し始めたとき、コルテスは彼を削除するには、フランシスコ·デ·ラス·カサスを送信しました。ラス·カサスは、嵐の中で彼の艦隊のほとんどを失ったが、彼はそれにもかかわらずメリアオリッ倒すとコルテスに領域を復元することができました。天然の良港が大きかったため、制御を仮定しすると、ラス·カサスは、その現在の場所に町を移転することにしました。同時に、トリウンフォ·デ·ラ·クルスは、トルヒーヨと改名された。副官、フアン·ロペス·デ·アギーレは、メディナという名前の別の代理が、町を発見するために残して、新しい町を確立すると充電中だが、彼はオフに出航しました。
コルテス自身が彼の信奉者の間で内輪もめの戦いを抑制するためのキャンペーンの間に、直後に町を訪れた。これは、苗木のためにジャマイカとキューバに設立されたスペインの植民地に船を送った彼は、種子、そこに発生する可能性家畜であった。今後数年間で、しかし、トルヒーヨは、国の内部で採掘され、金と銀の出荷ポイントなど、より重要になった。そのまばらな人口のため、市はまた、海賊が頻繁に標的となった。
スペインの支配下にトルヒーヨは、ホンジュラスの首都となったが、その脆弱性のために資本がコマヤグアの内陸の町に変更されました。要塞、湾を見下ろす崖の上に座っているフォルタレザ·デ·サンタ·バーバラ校(エルカスティージョ)は、1550年前後スペイン人によって建てられました。それにもかかわらず、実際に海賊からトルヒーヨを守るには不十分であった - 歴史の中で海賊の最大の集まりは、1683年に付近で行われた - あるいはライバル宗主国:オランダ語、フランス語、英語。町は、スペインのすべて、1633年と1797年の間に、18世紀中に何度も破壊されたが、それは弁解の余地のないものとみなされたため、トルヒーヨを放棄された。

参考URL:Trujillo, Colón Wiki
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by cluracan | 2012-03-11 16:39 | Discovery

【港・集落】 トリポリ

紀元前から栄えた古い街。時代によって、さまざまな名で呼ばれていた。十字軍の時代、十字軍の攻撃を避けるため、旧市街を放棄して内陸寄りに新しい街が築かれたという。産物は農作物のほか、繊維や医薬品である。

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都市名は紀元前7世紀にカルタゴによって建設されたフェニキア人の植民都市「オエア」「サブラタ」「レプテイス」3つを総称してギリシア語で「3つの都市」を意味する Tripolis という名で呼ばれたことに由来する。

ヴァンダル王国の時代にリビア地域の中心都市として発展し、645年にイスラム帝国に併合されたのちは、シチリア王国に一時占領された時期を除いてチュニジアやエジプトのムスリム(イスラム教徒)諸勢力の支配下にあった。
1510年にスペインによって征服され、1530年からマルタ騎士団の支配下に入ったが、1551年にオスマン帝国が征服して西トリポリ州の州都に定められた。

トリポリは地中海に臨むサハラ砂漠の端に位置する。チュニジアから約200km離れており、リビア第2の都市ベンガジとはスルト湾を間に挟む。300kmにわたる海岸はオアシス、砂漠、潟が交互に続く。

参考URL:トリポリWiki
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by cluracan | 2012-03-10 16:17 | Discovery

【港・集落】 トリエステ

ヴェネツィアからほど近い街。アドリア海の最奥に位置し、古代ローマ時代から港町として栄えてきた。冬季には、ボラと呼ばれるすさまじい強風が吹き荒れる。

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現在のトリエステ地域には、紀元前3千年紀以後インド・ヨーロッパ語族であるカルニ人が定住した。
その後、イストリア人が定住し、彼らはヴェネティ人がやってくる紀元前2千年紀までに主な文明を残した。
紀元前177年 トリエステは共和制ローマの支配下に入った。
紀元前51年 ユリウス・カエサル時代にトリエステは植民都市の地位を授けられ、その名をタルゲストゥム(Tergestum)と記録された(カエサルの著作『ガリア戦記』(紀元前51年))。
西ローマ帝国滅亡後、トリエステは東ローマ帝国の軍事中心地のまま残った。
788年 伯爵位を持つ司教の宗主下で、フランク王国の一部となった。
1081年以降、市はアクイレイア大司教のゆるやかな支配下に入り、12世紀終盤より中世の自由コムーネとして発展した。
しかしその後2世紀にわたり、近郊の強国ヴェネツィア共和国との戦争が続いた。
1369年から1372年にはヴェネツィアが事実上トリエステを支配した。

ヴェネツィアの脅威に対抗できなかったトリエステの自治都市市民たちは、オーストリア公レオポルト3世に、トリエステを彼の封土に加えてくれるよう懇願した。1382年10月、停戦合意締結が、シシュカ村(Šiška、ラテン語名apud Sisciam、現在はリュブリャナの一地区)の聖バルトロメウス教会で行われた。しかし市民らは、17世紀まで自治権の一定部分を保持した。
トリエステは重要な港湾と貿易のハブ地となった。神聖ローマ皇帝カール6世によってオーストリア領内における自由港とされ、1719年から1891年7月1日まで自由港のままであった。カール6世の後継マリア・テレジア時代は、トリエステの繁栄時代の幕開けとなった。

参考URL:トリエステWiki
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by cluracan | 2012-03-09 16:34 | Discovery

【港・集落】 ドーバー

ブリテン島南東に位置する街。ドーバー海峡に面している。フランスとの争いの最前線でヴァイキングの時代に防衛のための城が築かれた。

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古代ローマのころにはドーバーは重要な要塞港とされ「ポルトゥス・ドュブリス」(Portus Dubris)と命名された。ドーバーは古代ローマ街道「ワットリング街道(Watling Street)」の起点とされ、「ブリタニカ艦隊(classis britannica )」の重要な港であった。
ローマ人は今のドーバー城に当たるところに、灯台を築き50年には稼動していた、これは英国最古の建造物の一つとされている。 「ドーバーのローマ壁画の家(Dover Roman Painted House)」はAD 200年ころからの ローマの邸で、ブリテン島にある最も良好なローマの遺構である。

アングロサクソン人の時代にはドーバーには城塞が築かれた、それはドーバー城の最初の基礎の一部となった。1216年にはドーバーはフランス人の襲来を受け、フバード・ド・バラ(Hubert de Burgh)が防衛に成功している。 中世にはドーバーは「スィンク・ポート(Cinque Port)」主要メンバーになっている。
1642年に始まる清教徒革命ではドーバーは「議会派」についた。 1670年の5月26日にはチャールズ2世とフランスのルイ14世との間で、密かに両国間の交戦状態の終結に関する条約の調印が行われた(ドーヴァーの密約)。

参考URL:ドーバー(イギリス)Wiki
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by cluracan | 2012-03-09 16:25 | Discovery

【港・集落】 トゥンベス

フランシスコ・ピサロがインカ帝国へ向かおうとした時に立ち寄った街。甲冑に身を包み陽の光を受けて輝くピサロの姿を見て、現地の人々は彼を神聖な者と考え、歓迎したという。

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Tumbes fue una región poblada desde tiempos anteriores al imperio incaico por grandes grupos humanos dedicados a la agricultura, la caza y el comercio.

Uno de éstos fueron los Tumpis, considerados por las tradiciones como los más grandes navegantes de la costa peruana. Destacaron en el tallado de valvas de conchas de puntas, pata de burro (Concha lapas peruana) y otros moluscos.

Posteriormente, la zona estuvo incorporada al dominio del gran Chimú. Durante el incanato, y especialmente en el gobierno del inca Pachacutec, los cusqueños extendieron sus dominios hasta Tumbes.

En la época del incanato Tumbes tuvo un rol muy importante en los destinos políticos del Tahuantisuyo donde Pachacutec lo sometió a su dominio y después del año 1400, se dirigió a las islas puneñas y fue Huayna Cápac quien lo convirtió en un centro de operaciones desde donde salió con su ejército a dominar a los Puneños. Por esta razón el monarca dio mayor importancia a Tumbes y mandó a construir caminos, viviendas, palacios y templos.

En 1532 los primeros españoles llegaron al Perú a través del puerto la Leña al mando de Francisco Pizarro.

Tumbes es la primera ciudad en liberarse del yugo español, proclamando su independencia el 7 de Enero de 1821.

(とりあえず機械的に翻訳)
トゥンベスは、農業、狩猟や貿易に従事する人々の大規模なグループによるインカ帝国以前から人口密集地域であった​​。

Tumpisはペルー沿岸の最大の案内役として伝統的にみなされていました。
pata de burro(コンチャペルーフジツボ)とその他の軟体動物の貝殻、先っぽ、二枚貝の貝殻の細工に秀でていました。

続いて、領域が大きいチムー族のドメインに組み込まれています。
インカの時代に、特にインカPachacutecの政府では、インカ族はトゥンベスにその領土を拡張した。

インカトゥンベスの時に彼はルールに提出され、1400年後、プーノと島に行ってきましたPachacutec Tahuantisuyoの政治的運命の中で重要な役割は、操作の中心となったワイナ·カパックであった​​持っていたからPuneñosを支配する彼の軍隊に付属している。
この理由のために王がトゥンベスに大きな重要性を与え、道路、住宅、宮殿や寺院を構築するために送信されます。

1532年からスペインではフランシスコ·ピサロ率いるLeña港にペルーに到着しました。

トゥンベスは1821年1月7日に独立を宣言し、スペインの支配から自分自身を解放する最初の都市です。

参考URL:Historia de Tumbes Peru
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by cluracan | 2012-03-08 18:10 | Discovery

【港・集落】 ドゥアラ

大西洋のギニア湾に面する港町。広大な平地が広がるが、北西部には山岳地帯がそびえている。

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The first Europeans to visit the area were the Portuguese in about 1472.
By 1650, it had become the site of a town formed by immigrants from the interior who spoke the Douala language and during the eighteenth century it was center of the transatlantic slave trade.

(とりあえず翻訳)
1472年 ポルトガル人がこの地を訪れた。
1650年まで ドゥアラ語を話す内陸からの移民によって形成される街であった。
18世紀中頃 大西洋奴隷貿易の中心であった。

参考URL:Douala Wiki
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by cluracan | 2012-03-07 14:55 | Discovery


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