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【港・集落】 バレンシア

古代ローマ時代から栄えた街。イスラム勢力に支配された時期があるため、イスラム文化とヨーロッパ文化が共存している。農作物が豊富に流通するほか、近くにある鉱山から辰砂(しんしゃ)が採れる。

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紀元前137年にローマ人によって建設され、「ワレンティア」(Valentia 、強さ・活力の意)と名付けられた。それまでは「エデタニア」(Edetania)と呼ばれていた。
紀元前75年にポンペイウスとセルトリウスの争いによって破壊されたが、再建された。
バレンシアは西ゴート王国、次いでイスラム教徒に支配された。
1094年、エル・シドに征服されたが、彼が死ぬとムラービト朝に奪回された。
1238年、アラゴン王ハイメ1世がこの地を征服し、以降はキリスト教国の領土となった。ハイメ1世が建てたバレンシア王国は、アラゴン王国の一部を構成した。
15世紀から16世紀には、バレンシアは地中海でもっとも重要な都市の一つであった。ローマ教皇カリストゥス3世とアレクサンデル6世を輩出したボルジア家はバレンシアの出身である。チェーザレ・ボルジアは17歳でバレンシア大司教に任命されている。
18世紀のスペイン継承戦争では、バレンシアはオーストリアの推すカール大公の側についた。
1706年、イギリス軍がバレンシアに入城したが、アルマンサの戦いでフランス・スペイン軍が勝つと、イギリス軍は撤退しバレンシアは自治権を失った。

参考URL:バレンシアWiki
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by cluracan | 2012-03-21 14:29 | Discovery

【港・集落】 パルマ

地中海に浮かぶマジョルカ島にある街。歴史は古く、古代ローマ時代から栄えた。白い砂浜と青い海に囲まれた美しい島で、独特の植物も多い。産物としては、タイムなどの香辛料が豊富で、近海ではサンゴが採れる。

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世界最古の大学の一つである、1502年創立のパルマ大学がある。

先史
パルマは既に青銅器時代に形作られていた。現在の市がある場所にテッラマレ(Terramare)という村があったと立証されている。テッラマレは、薪による木の構造をした住居からなる古代の村落で、体系がはっきりした四角い形であったといい、一般的に川に近接した乾いた土地の上に建てられていた。この時代(紀元前1500年から紀元前800年)、最初のネクロポリスも建てられていた(現在ピアッツァ・ドゥオモと石臼広場のある場所)。

古代
市はおそらくほぼ、エトルリア人に建てられて名付けられた。パルマ(円形の盾)は多くのローマの言語と同様ラテン語から借用したもので、Parmeal、Parmini、Parmnialはエトルリアの碑文に現れる名前である。ディオドルス・シクルス(XXII, 2,2; XXVIII, 2,1)は、エトルリア人のものをまねた円形の盾をローマ人たちは自分たちの長方形の盾に変えたと知らせている。エトルリア人野営地は丸くて盾のようであったのでそう名付けたか、パルマの位置が北方のガリア人に対する盾となっていたからだとか、説に選択肢が多い。
古代ローマ植民地は紀元前183年につくられ、同時にムティナ(現モデナ)もつくられた。2,000世帯が移住した。パルマはエミリア街道とクラウディア街道といった陸上のハブ地として重要であった。当時は集会所が開かれ、現在ガリバルディ広場となっている。紀元前44年、市は破壊され、アウグストゥスが再建した。ローマ帝国時代、帝室に対する忠節から『ユリア』の称号を授かった。
市は瞬く間にアッティラに略奪され、のちに傭兵出身のオドアケルによって彼の部下へ与えられた。しかしゴート戦争(en)の間、トーティラがパルマを破壊した。東ローマ帝国のラヴェンナ総督領の一部となり(市名を『黄金都市』を意味するクリソポリスへ変えられた。軍の財宝が市にあったためであろう)、569年以後、ロンゴバルド王国の一部となった。中世、パルマはローマと北ヨーロッパとをつなぐ主要道、フランチジェナ街道の重要な宿場となった。数カ所の城、病院、そして宿屋が増加する巡礼者を迎えるためその後数世紀に渡り建てられた。

中世前期
フランク王国の支配下で、パルマは州都となった(774年)。ほとんどの北イタリア諸都市のように、カール大帝がつくった神聖ローマ帝国の名目上の一部となった。しかしパルマを支配したのはパルマ伯位を得たパルマ司教で、最初は司教グイドブスであった。教皇領と帝国の間のその後の諍いで、パルマは常に帝国側の一員であった。パルマ司教のうち2人が対立教皇となった。大聖堂の創建者・司教カーダロである対立教皇ホノリウス2世、そしてグイベルト司教ことクレメンス3世である。 ほぼ自治権を持つコムーネとしてのパルマは、1140年前後に創設された。1183年のコンスタンツの和議後(en)、近接するコムーネであるレッジョ・エミリア、ピアチェンツァ、クレモナとの諍いが、ポー川上の活気ある通商行路を掌握する狙いで過酷になっていった。
皇帝派と教皇派の争いはパルマの特色でもあった。1213年、パルマのポデスタ(最高権力者)はゲルフ(教皇派)のランベルティーノ・ブヴァレッリであった。代々の皇帝と並んだ長い態勢の後、パルマのパピスト家が1248年に実権を掌握した。パルマは、パルマの戦いで皇帝軍と激突した結果として、皇帝フリードリヒ2世に包囲された。

中世後期から近世
1341年、パルマはミラノ公国の手中に納められた。1404年から1409年まで短期間のテルツィ家による自治時代の後、スフォルツァ家が1440年から1449年まで協力関係にあるパッラヴィチーノ家、ロッシ家、サンヴィターレ家、ダ・コッレッジョ家を通じて支配を課した。これらは新たな封建制度の一種の創設であった。市内とパルマ領内至る所に塔と城を建てたのである。これらの封土が真の独立都市国家へと進化した。ランディ家が、1257年から1682年までターロ谷を治めた。パッラヴィチーノ家のシニョーリ(領主)が現在のパルマ県東部へ拡大し、首都をブッセートとした。パルマの領土は北イタリアを除き、封建的な細分化された封土の一部としてさらに近年まで続いていた。例えば、ソリンニャーノは1805年までパッラヴィチーノ家が所有し続けた。またサン・セコンドは19世紀までロッシ家に属していた。
14世紀から15世紀のパルマは、イタリア戦争の舞台であった。フォルノヴォの戦いはパルマ領内で起きた。フランス軍は1500年から1521年まで市を占領し、その間1512年から1515年は短期間の教皇庁の幕間であった。外国人が追放された後、パルマは1545年まで教皇領に属していた。
1545年、当時の教皇でファルネーゼ家出身のパウルス3世はパルマ及びピアチェンツァを教皇領から分離させ、自身の庶子であるピエール・ルイージへ公国として与えた。ピエール・ルイージの子孫は、1731年にアントニオ・ファルネーゼが男子のないまま死ぬまでパルマ公を世襲した。公国は2代公爵オッターヴィオ・ファルネーゼの代に強化された。彼はその短くも豊かな治世のため、パルマを真の首都として市の構造を修繕もした。
1594年、パルマ大学の強化と貴族学校の創設の法令が出された。数年にわたり、戦争が貴族らの権力を削ぎ続けた。1612年、バルバラ・サンセヴェリーノが、パルマ公に対して陰謀を謀ったとして6人の貴族らとともにパルマの中央広場で処刑された。17世紀終わり、パッラヴィチーニの戦い(1588年)とランディの戦い(1682年)で打ち勝った後、ファルネーゼ家の公爵は、全パルマ領をついに手中に納めることになった。コロルノのサンセヴェリーノ家の城は、フェルディナンド・ビビエーナによって公家の豪華な夏の離宮に変えられた。
1731年、パルマ及びピアチェンツァ公国は揃ってブルボン家の手に渡った。イタリアで行われたヨーロッパ王朝政治においてパルマの宗主権が外交的に揺り動かされたためであった。新たな支配者の下、パルマは衰退に直面した。1734年、パルマの公爵宮殿の顕著な美術収集品全てが、コロルノとサーラ・バガンツァからナポリへ移された。
パルマは1748年のアーヘンの和約後、フランス影響下に下った。パルマは宰相ギヨーム・デュ・ティロの精力的な活躍で近代国家となった。彼は近代工業の基盤をつくり、教会特権に対して奮闘した。市は特別に壮麗な時代を経験した。図書館、考古学博物館、美術館と植物園がつくられ、同時にジャンバッティスタ・ボドーニによって公家の印刷所が指揮された。

参考URL:パルマWiki
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by cluracan | 2012-03-20 12:34 | Discovery

【港・集落】 バルパライソ

マゼラン海峡を通ってきた船が停泊することで栄えた港街。街の名前には「天国の谷」という意味がある。

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もともとは、マゼラン海峡を航海してきた船が停泊する港として栄えた。
パナマ運河完成後は重要度が低下し、人口減少が続いた。

参考URL:バルパライソWiki

Valparaíso's bay was probably first populated by Picunches Indians, who were dedicated to agriculture.
Other accounts say that it was the Changos Indians who were nomads dedicated to fishing traveling between Caldera and Concepcion.
Spanish explorers arrived in 1536, on board the Santiaguillo, a supply ship sent by Diego de Almagro, who is considered the first European explorer, or discoverer, of Chile.
The Santiaguillo carried men and supplies for Almagro’s expedition, under the command of Juan de Saavedra, who named the town after his native village of Valparaíso de Arriba in Cuenca, Spain.

(機械翻訳)
バルパライソのベイは、おそらく最初の農業に特化したPicunchesインディアンによって移入された。
他のアカウントは、カルデラとコンセプシオン間を移動する釣りに専念していた遊牧民Changosインディアンであったと言う。
スペインの探検家は、ボードSantiaguillo、チリの最初のヨーロッパの探検家、またはDiscovererを、と考えられているディエゴデアルマグロ、によって送信された補給船で、1536年に到着しました。
Santiaguilloクエンカ、スペインのバルパライソde Arribaの彼の生まれ故郷の村の後に町の名前フアン·デ·サアベドラの指揮下、男性とアルマグロの遠征のために物資を運んだ。

参考URL:Valparaíso Wiki
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by cluracan | 2012-03-19 16:22 | Discovery

【港・集落】 バルセロナ

古代ローマ時代から、地中海貿易の拠点として栄えた街。製鉄技術が発達しており、大砲や銃が作られている。火器に関係する交易品が多く取引されているが、皮革製品の加工技術も有名である。

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伝説によれば、ハンニバルの父であるハミルカル・バルカが、カルタゴ人都市であるバルチーノを建設したという。後に、ローマ人がこの町を、現在の市庁舎(Sant Jaume 宮殿)近くの小さな丘である Mons Taber を中心とするカストルム(ローマ軍の宿営地)に作り替えた。ローマ人の都市計画の名残は、旧市街の地図や今も残るローマ時代の城壁の破片に見ることができる。ローマ時代の重要な遺物は、市立歴史博物館の入口にあるパラウ・レイアル・マジョールに展示されている。
5世紀より西ゴート王国の支配下におかれたが、
8世紀初頭にイスラーム勢力のウマイヤ朝によって征服された。
801年、フランク王国の遠征によってスペイン辺境領に組み込まれた。
9世紀末になるとフランク王国からの自立を進め、バルセロナ伯領を中心とするカタルーニャ君主国を確立させた。
985年にはイスラーム側のアル・マンスールによる包囲を受けたものの撃退した。
その後のバルセロナは、アラゴン連合王国を構成する一勢力として、多数の海外領土を包含するまでに拡大し、バルセロナからアテネに至る地中海を支配するまでになった。
しかし、15世紀にカタルーニャ・アラゴン連合とカスティーリャ王国との間で統一王朝が形成されると、スペインの中心はマドリードへと移行し、バルセロナは衰退してゆく。以上のような歴史的経緯によって、バルセロナを含むカタルーニャ地方全体において現在でもカタルーニャ語を話す者が多数を占めている(カスティーリャ語とのバイリンガル)。
1640年から1652年の収穫人戦争及びカタルーニャ共和国以後荒廃し、
1714年のスペイン継承戦争の間に再び荒廃した。フェリペ5世は、反乱を起こしたバルセロナを処罰し、統制するために、商業地区 (La Ribera) の半分を取り壊して城塞を建設した。

参考URL:バルセロナWiki
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by cluracan | 2012-03-18 10:50 | Discovery

【港・集落】 ハバナ

カリブ海のキューバ島北西岸に位置する街。天然の良港で、カリブ特有の産物が流通するほか、良質のタバコが扱われている。

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1514年 ハバナの始まりはコンキスタドールであるディエゴ・ベラスケスが、1514年にキューバ島の南岸(バタバノ湾側)にある現在のスルヒエドロ・デ・バタバノの近くに居住地を築いた時点まで遡る。
1519年 現在地(メキシコ湾側)に都市が移されたのは1519年のことである。
1553年にはそれまでのサンティアゴ・デ・クーバに代わってキューバ総督領の首府となった。1519年以降、港を中心に都市を築かれていったハバナはスペインの新大陸における植民地経営の中心地として、及びに貿易の主要な中継地として発展した。そのためにキューバはフランス、イギリス、オランダの海賊の攻撃を受けるようになった。
1537年にはフランス海賊によって最初の襲撃が加えられ、焼き討ちにあい、
1553年と1555年にも略奪を受けるなどの被害を受けた。このため、ハバナにはフエルサ要塞、プンタ要塞、モーロ要塞などの多数の要塞が築かれ、軍事都市としての趣が整えられた。
1713年のユトレヒト条約によってイギリスのイスパノアメリカ貿易の参入が限定的ながらも承認されると、以降海賊に代わって密貿易が盛んとなった。
18世紀はキューバ経済の拡大により、
1728年にはハバナ大学が建設され、
1738年には郵便制度が確立した。この時期に造船所が建造されるなど産業の発達も著しく、
1740年には城壁が完成したが、
1762年 七年戦争下の1762年にハバナはイギリス軍によって攻囲された。スペイン軍が降伏してイギリス支配の下に自由貿易港になると、多数のアフリカ人奴隷がイギリス人商人によってアフリカからハバナへ連行された。
1763年にスペインとイギリスの間の協定により、イギリスはキューバとマニラ(フィリピン)を返還してフロリダを受け取った。スペインはこれに懲りてハバナの更なる要塞化を進め、アメリカの全域でももっとも強固な要塞都市とした。一方、一年間のイギリス軍の占領の最中に自由貿易を実現したハバナは経済的に繁栄し、ハバナのクリオージョ支配層は自由貿易の実現を望むようになった。

参考URL:ハバナWiki
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by cluracan | 2012-03-18 10:25 | Discovery

【港・集落】 パナマ

北米と南米の境に位置する港街。「魚が豊富な場所」という意味の名のとおり、漁業が盛んである。街の周辺に広がる熱帯雨林には、様々な生物が生息している。

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1519年8月15日 パナマ市は、ペドロ・アリアス・デ・アビラ(スペイン語:Pedro Arias de Avila)により建設されたことから始まる。昔も今もこの都市は、地峡を利用した国際貿易と金融業で繁栄している。かつては、南米ペルーへの探検と、黄金や銀をスペインへ運ぶための拠点であった。
1671年1月28日 1400人の海賊を率いてやってきたイギリス人のヘンリー・モーガンが都市を攻撃、黄金を略奪後、火を使い破壊した。このときの遺跡はパナマ・ビエホ (en:Panamá Viejo) と呼ばれる。
1673年 ヘンリー・モーガンによる破壊の後、町は全て約11km西南のカスコ・ビエホ (en:Casco Viejo) に移転した。

参考URL:パナマ市Wiki

先コロンブス期
ヨーロッパ人の来航以前の現在のパナマの地には、主にチブチャ族をはじめとする人々が居住していた。
紀元前2900年から同1300年に刻線文が特徴のモナグリーヨ (Monagrillo) 土器を用いた人々が、主としてパナマ中央部、アスエロ半島北方のパリタ湾岸に貝塚、内陸では岩陰や洞窟で生活を営んでいたことが知られている。
紀元前1000年頃にモナグリーヨ土器を伴う集落がなくなり、
紀元前6世紀になると、ムラ・サリグアなどをはじめとする掘立柱建物を住居とした集落が点々と営まれるようになる。ムラ・サリグアの最盛期には、推計で人口は600人から700人近くに達し、集落の面積は58haまで発達した。しかし、紀元前後になっても祭祀センターとまで言える遺跡は確認できていない。
紀元3世紀から4世紀ごろの遺跡からは、木の実や穀物をすりつぶすマノ(すり石)とメタテ(すり皿)が発見されていることから、農耕が本格的に開始されていたと推測される。
A.D.500頃には、パリタ湾岸では金製品で知られるコクレ (Cocle) 文化が興る。その起源についてはコロンビアからの影響か、独自の発展か決着をみていない。またコスタリカ東部に隣接する西部では、美術的にも評価の高い彩文土器や土偶で知られるチリキ(Chiriqui)文化が興る。
16世紀初頭 スペイン人が到来する直前にあたる16世紀初頭には、現在のパナマに相当する地域には20万人から200万人の人間が居住していたとされている。

スペイン植民地時代
1501年、ヨーロッパ人としてはじめてスペインの探検家ロドリーゴ・デ・バスティーダスがパナマを「発見」し、カリブ海側ダリエン湾のポルト・ベーロに上陸した。
1502年には、クリストーバル・コロン(コロンブス)がモスキートス湾沿岸を探検している。これ以降、自らがインドに到達したと誤解したコロンによってパナマに住んでいた人々はインディオ(インド人)と呼ばれるようになった。
1508年 カスティーリャ王フェルナンド5世が、パナマをスペインの探検家ディエゴ・デ・ニクエサに与えた。
1513年にバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが太平洋側に到達した(ヨーロッパ人による太平洋の「発見」)。
1514年には総督としてペドラリアス・ダビラが派遣され、
1519年にはパナマ市が建設された。パナマにも他のアメリカ大陸の植民地と同様にアフリカから黒人奴隷が連行され、インディオは疫病と奴隷労働によって大打撃を受けたが、パナマ市はイスパノアメリカ植民地の交通の要衝、スペイン人の居住都市として1671年1月28日にイギリスの海賊ヘンリー・モーガンによる焼き討ちにあうまで繁栄を極めた。
1530年代、バルボアの下で植民地経営の経験を積んだフランシスコ・ピサロはパナマを拠点にインカを征服した。また、ペルー及び近隣植民地からスペイン本国への輸送ルートは、ほとんどがパナマを経由した。例えば、ポトシ銀山の銀は海路で太平洋側のパナマ市まで輸送された後、陸路でカリブ海側のポルトベロまで運ばれ、そこから再び海路でスペインに送られるなど、16世紀はじめにスペインはパナマ周辺地域の支配権を確立した。後にパナマはペルー副王領の一部となり、1718年に新たに創設されたヌエバ・グラナダ副王領に編入された。
16世紀から17世紀には、フランシス・ドレークやヘンリー・モーガンをはじめとする英国の海賊がしばしば輸送拠点を襲撃し、搬送物を略奪した。

参考URL:パナマ共和国Wiki
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by cluracan | 2012-03-18 10:14 | Discovery

【港・集落】 パタニ

イスラム教を国教とするマレー人の国であるパタニ王国の首都。
マレー王朝の中でもいち早くイスラム化を果たした。

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パッターニーのことと思われる。

パッタニーには14世紀から19世紀にかけてパタニ王国という半独立の王朝があったが、これは事実上スコータイ王朝、アユタヤー王朝、チャックリー王朝の支配下にあった。その後チャックリー改革によりパタニ王国は廃止され、大英帝国との協定によってパッターニーはマレー人が多く住みながらも、タイの一部となった。

参考URL:パッターニー県Wiki

パタニ王国
13世紀、ランカスカ王国は、ヒンズー=仏教帝国シュリーヴィジャヤ王国の属国となってパレンバンへ遷都し、パタニ王国が成立した。シュリーヴィジャヤ王国は南シナ海の貿易を支配し、マラッカ海峡を通過する全ての貿易から通行料を徴収した。マレー文化はクメール王国と古代都市ナコーンパトムへ大きな影響を与えた。
13世紀中期、イスラーム帝国の基礎が築かれたと考えられており、そのときラジャ・スリ・ワンサ(Ismail Shah)によってパタニの名を戴いたが、彼がマレー半島東海岸で遷都する場所を指さし、「パタイ・イニ(この浜にしよう)」と叫んだことが発端となっていると地元の伝承は言う。別の伝承によると遷都するかなり前にパック・タニ(Pak Tani、タニおじさんの意)という有徳者が住んでいたためそう呼ばれるようになったとする。別の説では、その伝承はen:Pan Panのものと指摘している。いずれにせよ、遷都当時の首都は現在のパッターニー県ムアンパッターニー郡ではなく現在のマスジド・クルーセ付近で、このパタニ王国は現在マレー王朝のなかで一番古いイスラム王国であると考えられている。
マレー半島東海岸のパタニは南シナ海貿易の要港で、古くから中国商船が来航し、琉球王国とも通好関係があった。
1511年のマラッカ王国の陥落によりマレー貿易の中心がパタニに移っていたため、パタニ王国はインド人ムスリムの商人が以前よりも頻繁に訪れるようになっていた。
1516年にはポルトガル人の探検家ゴディーニョ・デ・エレディアがパタニの地を踏んだことで、パタニ王国は西洋にも知られるようになった。
16、17世紀の大航海時代にはポルトガル、オランダ、イギリスが商館を構え、日本からも朱印船が渡来し日本人街もあったという。

参考URL:パタニ王国Wiki
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by cluracan | 2012-03-17 14:10 | Discovery

【港・集落】 バスラ

ペルシャ湾奥に位置する街。7世紀に建設され、8世紀には交易と文化の中心地であったという。しかし、アッバース朝が衰退するにつれて重要性を失っていった。それでも、ペルシャ絨毯をはじめ重要な産物が流通している。

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人類最初の王権が成立した都市とされているエリドゥが古代はあった。
638年 バスラは、第2代正統カリフ、ウマル1世の派遣したウトバ・イブン=ガズワーンによって、イスラム史上最初の軍営都市(ミスル)として建設されたが、もともとの市街はシャトル・アラブ川から離れた場所にあり、現在ズバイル(az-Zubayr)と呼ばれている町の位置であった。旧バスラは、当初はイラン(サーサーン朝領)征服・統治の拠点として活用され、まず政治都市として発展したが、運河と川を通じてペルシア湾に接続され、ペルシア湾岸最大の貿易港、ペルシア湾を経由したインド洋貿易の中継地となるとともに、肥沃なチグリス川・ユーフラテス川下流域で生産された穀物の集積地として繁栄をきわめた。
アッバース朝期には人口が30万人を超え、千夜一夜物語(アラビアンナイト)にも登場したが、
839年にイラク南部で興ったザンジュの乱やモンゴル帝国の侵入による被害から衰え、
13世紀にアッバース朝が滅亡した後にほとんど廃墟となった。
1668年 その後、シャトル・アラブ川河畔に再建されたバスラを1668年に占領したオスマン帝国は、現在のイラク南部とクウェートの一帯を管轄するバスラ州(Basra Vilayet)を置いた。

参考URL:バスラWiki

参考URL:エリドゥWiki
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by cluracan | 2012-03-17 14:01 | Discovery

【港・集落】 バイーア

バイーアとは「湾」の意味。大西洋に面し、トドス・オス・サントス(「諸聖人の湾」)を取り囲む半島に位置する南米の街。

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サウヴァドール(Salvador)はブラジル北東部、大西洋岸にある港湾都市。同国バイーア州の州都である。なお一般的には、サウヴァドールよりもバイーアと呼ばれる方が多い。

サウヴァドールの正式名称はサン・サウヴァドール・ダ・バイーア・ジ(デ)・トードス・オス・サントスで、「諸聖人の湾の、聖なる救世主」という意味である。諸聖人の日(万聖節)に発見されたことから、そう名付けられた。サウヴァドール自体はポルトガル語で救世主(=キリスト)を意味する。
なお、「湾」を意味するバイーアは、本来ポルトガル語のスペルはBaía と表記されるが、昔から地名としては h を加えてBahiaと表記することが一般的とされてきた(どちらのスペルでも発音は変わらないが、表記が異なる理由は不明といわれる)。
サウヴァドールは大西洋に面し、「諸聖人の湾」を取り囲む半島に位置している。

1502年 「諸聖人の湾」が初めてヨーロッパ人によって発見された。
1549年 サウヴァドールが建設された。初代ブラジル総督トメ・ヂ・ソウサ率いるポルトガル人が入植。
その後急速にブラジルの主要貿易港として発展し、砂糖産業と奴隷貿易の中心地であったポルトガル領ブラジルの最初の首都となった。
1552年 ブラジルで初めてカトリックの司教座となり、以後ブラジルのカトリック教会の中心地のひとつでありつづけている。
1583年に人口1,600人に達した後も急速な成長を続け、北米でアメリカ独立戦争が起こった1776年の段階では、新世界で最大の都市のひとつになっていた。
当時サウヴァドールはポルトガル副王国グラン・パラ、およびバイーア・デ・トードス・オス・サントス県の首都であった。
1624年5月オランダがサウヴァドールを攻略
1625年4月にポルトガルが奪還するまで、他の北東部の港と同様に占領を続けた。

参考URL:サルヴァドールWiki
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by cluracan | 2012-03-16 17:22 | Discovery

【港・集落】 ナント

ローマ時代から存在する、歴史ある街。ロワール川に近く、昔から交通と交易の要衝として栄えた。農作物や織物を産するほか、香料が重要な産物である。

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古代
ナントの場所に最初に定住したのはケルト人であった。
紀元前70年頃、ガリア人の一部族であるナムネティ人が町をつくった。
紀元前56年にユリウス・カエサルによって占領され、ポルトゥス・ナムネトゥス(Portus Namnetus)と呼ばれた。

ガロ=ロマン時代
3世紀から4世紀にはロワール河口地方の主要な都市となり、周辺の集住地と同様にコンデウィクヌム(Condevicnum)という旧称から一帯に住む人々の名を取った名称へ改称された。こうした地名の改変はローマ帝国の安定が崩壊しつつある時期に行なわれている。この時期の宗教的彫刻や奉納文の中には、土着の古いケルト神話の復興を示す記述が発見されている。地名の変更はおそらく、土着民のガリア的な民族性の復興という一連の現象の一部である。
280年頃、サクソン人海賊の襲撃から都市を守るためにローマ帝国は数多くの駐屯地を設置した。こうした駐屯部隊はおそらくブリテン島地域からやってきたと考えられている。エルドル川沿いにはブリトン由来の地名が残されており、ブリトン人たちはエルドル川流域へと分布を拡大したと考えられている。駐屯ブリトン人たちはロワール川沿いにブロワに至るまで配置されていた。
ナントがキリスト教化されたのは紀元3世紀である。
285年にはサクソン人、
500年頃にフランク人、
6世紀から8世紀にかけてブリトン人、
9世紀にはノルマン人の襲来を経験した。 "ナントの町は何年もの間人の少なく荒れ果て、イバラやサンザシが生い茂っていた。"、ナント年代記は946年までのナントの様子を述べている。ブリトン王国最後の王であったアラン偉大王の孫にあたる、アラン捩髭公(のちのブルターニュ公アラン2世)が祖父の敵である古代スカンディナヴィア人を追放し、ブルターニュ公国を建国した。

中世
ブルターニュ公コナン4世の時代、ナント伯オエルはポロエ子爵ウードン(ブルターニュ女公ベルトの2度目の夫。コナン4世の継父)とブルターニュ公領を2人で分割する盟約を結ぶ。しかし、アンジュー伯ジョフロワ6世(イングランド王ヘンリー2世の実弟)が支援したナント領民の反乱に脅かされ、ウードンへの派兵ができず、ウードンはナントを占領したコナン4世に捕らえられた。コナン4世は公国内で頻発する反乱を抑えることができず(イングランドが陰で反乱を支援していた)、イングランドに助けを求めた。その見返りとしてイングランドは政略結婚を求め、コナン4世の一人娘コンスタンスとヘンリー2世の四男ジェフリーを結婚させた。この後、ブルターニュ公国はイングランドの属国同様となる。
ジョフロワ2世の子アルテュールは、フランス王フィリップ2世を庇護者としていたことから、イングランドの王位継承権問題もからんでブルターニュはイングランド=フランス間の係争地となった。アルテュールが実の叔父であるジョン王に謀殺された後、ブルターニュ公位はアルテュールの異父妹アリックスが継承した(アリックスが幼少であったため、フィリップ2世が摂政を務めた)。
カペー朝期のブルターニュ公時代、ナントはレンヌをしのぐ政治の中心地となった。それまでの公の本拠地ブーフェ城の代わりにナントにブルターニュ公爵城が建てられた。
ブルターニュ継承戦争時、ナントはブルターニュ公ジャン3世の後継としてジャン・ド・モンフォール(のちのジャン4世)を受け入れ、1341年5月に彼は公国を継承した。2週間の包囲戦後の1341年11月21日に、ブルターニュ公位請求者シャルル・ド・ブロワがフランスの後押しを受けてナントを征服し、ジャン4世を捕虜とした。その後ナントはブロワ派側についた。

フランス併合
1488年、ブルターニュ公フランソワ2世の急死で公位についたのは、まだ11歳の一人娘アンヌ・ド・ブルターニュであった。幼いアンヌをもり立てていかねばならないところを、貴族らは支配権を巡って争いを続け、そこへブルターニュ公国領併合を目論むフランスが介入することになった。ナントはフランス軍に素早く包囲された。1487年の戦いと1491年の戦い(アルブレ領主アラン・ダルブレは、最後にルイ2世・ド・ラ・トレモイユへ城を差し出した)が知られている。
1491年にシャルル8世はナントへ入城した。後ろ盾のないアンヌは、シャルル8世と結婚する以外に公国を維持することができず、やむなく結婚に同意した。1498年に、子供がないままシャルルと死別。公国の独立のために、彼女はルイ12世と再婚した。
1487年から1491年まで続いた戦争で(狂った戦争とも)、ブルターニュは敗退し、1532年のブルターニュ併合令によってフランスへ併合された。独立ブルターニュ公国の最後の女公アンヌの2度のフランス王との結婚で、ブルターニュ領は将来の併合を予期していた。そして最終的に、アンヌの長女クロードとその夫フランソワ1世の時代に併合は完了した。

ルネサンス期のナント
ナントは、15世紀の終わりには人口約4万人に達していた。しかし、1501年に初めてペスト大流行がナントを襲い、犠牲者およそ4,000人を出す事態となった。その後の大流行は1522年、1523年、1529年にも起きた。
フォッセの建設が1517年に始まった(後にフォッセ埠頭となる)。1543年、ジャン・ド・ブロッセがブルターニュ総督となった。その代わりとして、彼はブルターニュ公位授与を断念している。

ブルターニュ高等法院
多様な名前を持つブルターニュ高等法院は、その発祥時からヴァンヌで開かれてきた。1553年から1561年までレンヌとナントが対立し、2都市の間で交互に高等法院が開会された。フランス王にしてブルターニュ公僭称者アンリ2世は1557年に、高等法院はナントでのみ開催されると決めた。
この決定に対するレンヌの抗議を前にして、摂政であり最後のブルターニュ公妃僭称者カトリーヌ・ド・メディシスは、1560年3月15日に少年王シャルル9世が出した勅令によってレンヌで高等法院が開催されることを定めた。
ナントは1790年まで、ブルターニュ会計局が置かれていた(1492年から1499年までヴァンヌにあった)。この会計局庁舎は現在ロワール=アトランティック県庁舎となっている。ナントは他に、フランソワ2世公によってつくられたブルターニュ唯一の大学(ナント大学)も保持していた。

ナントの勅令
メルクール公フィリップ=エマニュエルは、1582年9月5日にブルターニュ総督に任命され、ナントの街と居城が与えられた。彼の妻は、かつてブルターニュ公を出したパンティエーヴル家の女子相続人で、そのために彼はブルターニュ独立派に属していた。メルクール公は1584年以降、反プロテスタントのカトリック同盟に加わり、プロテスタントの王アンリ4世に対抗した。メルクール公は王に対抗した最後のカトリック同盟者となり、1588年に縁戚関係にあった同盟の首領ギーズ公アンリ1世が暗殺された後もナントに籠城して抗争を続けた。1593年にアンリ4世が正式にカトリックへ改宗した後の1597年に彼は戦いをやめ、アンジェへ向かい王に帰順した。ナントはこの対立に大きな代価を払うことになり、16世紀半ばまではそれまでと比べて翳りのある時代を経験することとなった。ブルターニュがカトリック同盟の最後の州であったこと、中でもナントが同盟の最後の都市であったことから、アンリ4世は1598年に有名な勅令を宣言する都市としてナントを選び、宗教対立を終結させた。
1675年、ナントは印紙税一揆の舞台となった。

参考URL:ナントWiki
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by cluracan | 2012-03-15 18:11 | Discovery


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