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【港・集落】 ブエノスアイレス

街名は「良い空気」の意味。南米東岸、広大で肥沃な平原の広がるラプラタ川河口に位置する街。四季を持つ。ウィチ人が暮らしている。

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1516年にスペイン王の命により新大陸の探検をしていた、スペイン人航海者 フアン・ディアス・デ・ソリスは、ラ・プラタ川に到達した。ソリスは今日のラ・プラタ地域に到達した最初のヨーロッパ人だと思われるが、今日のウルグアイ領で、先住民のチャルーア族により殺害される。
1536年2月2日、バスク人貴族でスペインの探検家だったペドロ・デ・メンドーサ(Pedro de Mendoza)の植民団一行は、現在のブエノス・アイレス南部のサン・テルモ地区に、ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリーア・デル・ブエン・アイレ市(Ciudad de Nuestra Señora Santa María del Buen Ayre 直訳すると「良き風の我々の聖母マリア市」) を建設した。しかしグアラニー族やチャルーア族を始めとする先住民の包囲攻撃と、それに伴う飢餓のために町は1541年に放棄され、生き残りはパラナ川を上ってアスンシオンを建設した。
1580年、アスンシオンからパラナ川を下って来た、フアン・デ・ガライ率いるヨーロッパ人植民団により、街はラ・トリニダー(La Trinidad)市として再建された。
町は当初ラ・プラタ地域の皮革などを輸出する貿易港として賑わったが、16世紀、17世紀の大半をスペインの植民地政府は、ヨーロッパへの輸出品は全てペルーのリマを経由することを強制しつづけたので、市内の貿易業者の不満が高まり、イギリスやフランス、オランダとの密貿易が盛んになった。
1776年にブラジル方面から侵攻を続けるポルトガルからバンダ・オリエンタルを防衛するために、ペルー副王領が分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となり、正式に開港された。しかし、完全な自由貿易を求めるクリオーリョ達にとっては、この措置は未だに不十分なものであり、スペイン当局への憤懣を鬱積させるもとになった。

参考URL:ブエノスアイレスWiki
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by cluracan | 2012-03-23 22:38 | Discovery

【港・集落】 ファロ

リスボンの南に位置する、小都市。レコンキスタのとき、ポルトガル国内で最後までイスラム勢力が残っていた都市である。13世紀にポルトガル王がこの街を占拠し、レコンキスタは完了した。

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フォルモーザ潟が新石器時代から先史時代後半まで人類の定住をひきつけてきた。
ローマ帝国時代に占領され重要な都市に成長した定住地オソノーバ(Ossonoba)は、歴史家によれば現在のファロの前身だという。
3世紀以降の西ゴート王国時代、ここにはキリスト教の司教座が置かれていた。
8世紀のムーア人支配の到来で、オソノーバはイベリア半島南西端における最重要の町としての地位を保持した。
9世紀、短期間だがイスラムの太守国の首都となり、防御用の壁で町が囲まれた。この時点で、サンタ・マリーアという名がオソノーバの代わりに使われ始めた。後に町はハルーン(Harun、地元イスラム教徒の首領にちなむ)として知られるようになり、現在のファロの名となった。
500年間のイスラム教徒支配の間、ファロのユダヤ人住民の一部が旧約聖書の複写を書いた。ファロの歴史的な名前の一つはアラビア語でأخشونبةであった。イスラム勢力は1272年、ポルトガル王アフォンソ3世軍によって敗退させられた。シルヴェスの都市としての重要性が衰えると、ファロがアルガルヴェ一帯の行政の役割を担った。
1596年、エセックス伯ロバート・デヴァルーがファロの町を略奪し、ファロ司教の図書館を奪った。この時奪われた書物は後にオックスフォード大学へ寄贈され、バドリアン図書館の一部となった。
1577年、ラゴスがアルガルヴェの中心地となり、1756年までその地位にあった。その1年前の1755年に、リスボン地震によってラゴスの町の大半が破壊された。地震はアルガルヴェの数カ所に被害を与え、津波が海抜の低い場所にあった沿岸の要塞群を取り壊し、家々を倒壊させた。フォルモサ潟の砂岸で守られていたファロを除くアルガルヴェ沿岸の町村ほぼ全てが、ひどい被害を受けた。この時から、ファロはアルガルヴェの行政中心地となって今に至っている。

参考URL:ファロWiki
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by cluracan | 2012-03-22 16:12 | Discovery

【港・集落】 ファマガスタ

地中海東部、キプロス島東岸に位置する街である。シェークスピアの悲劇「オセロー」の舞台だといわれる。温暖な地中海性気候で農業が盛ん。銅鉱山もある。

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ファマグスタ (Famagusta)は、キプロス東部・ファマグスタ地方の主要都市である。ギリシア語ではアモホストス(Αμμόχωστος)、トルコ語ではガーズィマーウサ(Gazimağusa)と呼ばれる。湾の中央部にあり、キプロスで最も水深のある港がある。
古代にはエジプトのプトレマイオス朝の女王にちなみアルシノエと呼ばれていたが、「砂に隠された」という意味のアンモコストスと呼ばれるようになった。この名前が西ヨーロッパでは「ファマグスタ」に変化し、トルコ語で「マウサ」(Mağusa)に変化した。

紀元前300年、アルシノエという漁村であった。のち、サラミス撤退により小さな港町となった。
1192年、島の支配がフランスのリュジニャン家に移ったことが大きな転換点となる。東地中海で天然の良港を持ち、町を守る城壁を擁し、中東と西ヨーロッパの中継点として栄え、人口が増えた。
1291年アッコン陥落ののち、オリエントのキリスト教国で最も裕福な都市の一つとなった。
1372年にジェノヴァ共和国が、
1489年にヴェネツィア共和国がその富を狙い港を襲撃している。裕福な商人たちはそろって教会を寄進して建て、これらは今も残り、ファマグスタが教会地区と知られる所以となった。
1570年から1571年にかけ、ファマグスタはオスマン軍による13ヶ月の包囲と恐ろしい砲撃に耐えた。陥落後、町はオスマン帝国の一都市として変貌し、唯一残った大聖堂はモスクにされた(ラーラ・ムスタファ・パシャ・モスク)。

参考URL:ファマグスタWiki
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by cluracan | 2012-03-22 16:01 | Discovery

【港・集落】 ピンジャラ

オーストラリアの南西端にほど近い街。街の名前は付近の低湿地帯を指す先住民の言葉が訛ったものである。
南西オーストラリアの内陸部には、埋蔵量が豊富な鉄鉱石や金の鉱山が存在するため、それらの積み出し港として注目を集めている。

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The name was often shown spelt "Pinjarrup" on early maps, while the accepted spelling for many years was "Pinjarrah".
There are conflicting theories regarding the meaning of the name, and it is usually said to mean "place of a swamp", as a corruption of the Aboriginal word "beenjarrup".
However, Pinjarra is more likely to have been named after the Pindjarup people who frequented the area.
One of the first settlers in the area was Thomas Peel, who established a settlement at the mouth of the Murray River in 1830.
In 1831, land was reserved for a townsite near a ford over the river. By 1834, word had spread about the rich loamy soils and pastures, bringing more Europeans to the area.
Surveys were carried out in 1836 and land allocated to settlers in 1837.

(機械翻訳)
長年のスペルが容認は "Pinjarrah"であった間に名前が頻繁に、早期に地図上にスペルト小麦"Pinjarrup"に示された。
そこに名前の意味については相反する理論があり、それは通常、アボリジニの言葉"beenjarrup"の腐敗として、 "沼の場所"を意味すると言われています。
しかし、ピンジャラ、領域を頻繁にPindjarupの人々にちなんで命名されている可能性が高くなります。
領域の最初の入植者の一つは、1830年にマレー川の河口に定住し、トーマスピールでした。
1831年に、土地は川の浅瀬の近くにニュータウン建設用地のために予約された。 1834年では、言葉が地域に多くのヨーロッパをもたらし、豊かなローム質の土壌と牧草地について広がっていた。
調査は1836年と1837年に入植者に割り当てられた土地で行った。

参考URL:Pinjarra Wiki
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by cluracan | 2012-03-22 15:29 | Discovery

【港・集落】 ヒホン

ボルドーの西、ビスケー湾南岸にある小都市である。発祥は古代ローマ軍の軍営地だという。

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大西洋のビスケー湾にのぞむ港湾都市。鉄鉱石、石炭などを近隣で産出するため、製鉄業が発展している。

ヒホンでは先史時代の墳丘やドルメンの遺跡が見つかっている。
近年相次いで発見されたドルメンは紀元前5千年紀にさかのぼる。
紀元前6世紀からアストゥル人が定住した。
紀元前1世紀にはローマの支配下に入り、半島部(シマデビラ)に街が作られた。
ローマ時代から西ゴート時代には「ジジャ」(Gigia)という名前で呼ばれた。
713年ごろにイスラム勢力に征服されたのち、アストゥリアスはヒホン駐在のヌムーザによって支配された。
718年ごろ、伝説的な王ペラヨはコバトンガの戦いでヌムーザをやぶった。これ以降、ヒホンはアストゥリアス王国、レオン王国、カスティーリャ王国の領土となった。

参考URL:ヒホンWiki

ドルメン
支石墓(しせきぼ)は、ドルメンともいい、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種である。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとる。

参考URL:支石墓Wiki
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by cluracan | 2012-03-22 15:17 | Discovery

【港・集落】 ヒバオア

マルキーズ諸島南部にあるヒバオア島の街。独特の山並みが特徴の火山島である。熱帯圏でありながら、冷涼な南赤道海流の影響を受け、年間を通じて温暖快適な機構である。

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Hiva Oa is the second largest island in the Marquesas Islands, in French Polynesia, an overseas territory of France in the Pacific Ocean. It is the largest island of the Southern Marquesas group. According to local religion, the gods created the islands as their home. Therefore all islands have names that are related with the building of a house. Hiva Oa means long ridgepole.

(機械翻訳)
ヒバオア島はフランス領ポリネシア、南太平洋のフランス海外領土のマルケサス諸島で二番目に大きな島です。それは南部のマルケサス諸島グループの最大の島です。地元の宗教によると、神々は彼らの家の島を作成しました。したがって、すべての島々は、家の建物と関連している名前を持っています。ヒバオア島は、長い合掌を意味します。

参考URL:Hiva Oa Wiki

The island groups that make up French Polynesia were not officially united until the establishment of the French protectorate in 1889.
The first of these islands to be settled by indigenous Polynesians were the Marquesas Islands in AD 300 and the Society Islands in AD 800.
The Polynesians were organized in loose chieftainships.
European communication began in 1521 when the Portuguese explorer Ferdinand Magellan sighted Pukapuka in the Tuāmotu-Gambier Archipelago.
Dutchman Jakob Roggeveen came across Bora Bora in the Society Islands in 1722, and the British explorer Samuel Wallis visited Tahiti in 1767.
The French explorer Louis Antoine de Bougainville visited Tahiti in 1768, while the British explorer James Cook visited in 1769.
Christian missions began with Spanish priests who stayed in Tahiti for a year from 1774; Protestants from the London Missionary Society settled permanently in Polynesia in 1797.

(とりあえず翻訳)
フランス領ポリネシアを構成する島のグループは正式に1889年にフランスの保護国の確立されるまで団結していませんでした。
300年 800年 先住民ポリネシア人によって移民された、これらの島々の最初は、AD300のマルケサス諸島とAD800のソシエテ諸島であった。
ポリネシア人は緩いchieftainshipsで編成されました。
1521年 ポルトガルの探検家フェルディナンド·マゼランは、ツアモツ諸島、ガンビア諸島のプカプカ島を視認したときに、欧州の通信は、1521年に始まった。
1722年 1767年 オランダ人ヤコブRoggeveenは、1722年にソシエテ諸島のボラボラ島に出くわした、とイギリスの探検家サミュエル·ウォリスは1767年にタヒチを訪問しました。
イギリスの探検家ジェームス·クックが1769年に訪問しながら、フランスの探検家ルイ·アントワーヌ·ド·ブーゲンビルは、1768年にタヒチを訪問しました。
キリスト教のミッションは1774年から年間タヒチに滞在したスペインの司祭から始まった、ロンドン宣教師協会からプロテスタントが1797年にポリネシアに恒久的に定住した。

参考URL:French Polynesia Wiki

ハワイキ
ポリネシア人たちは自らの故地を「ハワイキ」「アヴァイキ」などと呼んだ。
この言葉はポリネシア各地で若干異なっており、タヒチでは「ハヴァイイ」、ツアモツ諸島などでは「ハヴァイキ」、クック諸島では「アヴァイキ」、サモアでは「サヴァイイ」、アオテアロアでは「ハワイキ」、ハワイ諸島では「ハワイイ」などとなっている。

参考URL:ポリネシアWiki
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by cluracan | 2012-03-22 14:59 | Discovery

【港・集落】 ピサ

古代ローマの時代に開拓された、古い街。ピサの斜塔があることで有名。イタリア諸都市の中で最初に都市国家の宣言をした。主な産物は高級織物や大理石像などである。

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古代
ピサの起源は数世紀に渡って不明なままである。市は2つの川、リグリア海で潟地帯を形成するアルノ川とセルキオ川の合流地点にある。ペラスゴイ人、ギリシャ人、エトルリア人、リグーリア人といった多様な民族が市の創立者として名を連ねてきた。
紀元前5世紀からの考古学的痕跡は、市が海に面してギリシャ、ガリアと交易を行っていたことを立証している。
ピサ海運の役割は既に古代から、船嘴の発明のために自治体としての地位は揺るぎのないものとなっていた。当時小さな村にすぎなかったジェノヴァから、オスティアへ至る沿岸唯一の港湾として、ピサは利用されていった。ピサは、ローマ海軍の対リグーリア人、ガリア人、カルタゴ人遠征の基地とされた。
紀元前180年、ローマ法の下で植民地ポルトゥス・ピサヌス(Portus Pisanus)となった。
紀元前89年、ポルトゥス・ピサヌスはムニキピウムとなった。皇帝アウグストゥスは重要港として植民地の防衛を強化し、その名をコロニア・ユリア・オブセクエンス(Colonia Iulia obsequens)へ変更した。
313年以降、キリスト教の司教座が置かれていた。

古代後期・中世初期
ローマ帝国の衰退期、ピサはイタリアの他都市大半のように衰えなかったといわれている。川の体系の複雑さゆえと、防衛の結果の平穏ゆえであった。
7世紀、ピサはローマ教皇グレゴリウス1世 に対し、教皇が行うラヴェンナの対東ローマ帝国軍事遠征においておびただしい数の船舶を供給することで支援した。ピサは、トスカーナ(当時はトゥスキア)が自らの通商権が妨げられた近郊地域とともに同化したことで、大した抵抗もなくロンゴバルド族の手に陥ちた中、たった一つ残った東ローマ帝国の中心であった。ピサはこのやり方で北ティレニア海の主要港としてその存在を重くし、トスカーナ=コルシカ島及びサルデーニャ島、フランス・スペインの南岸間の主要貿易中心地となった。
カール大帝が、ロンゴバルド王デジデリウス指揮のロンゴバルド軍を774年に打破した後、ピサは危機を迎えたがすぐに回復した。政治的にはルッカ公国の一部となった。
930年、ピサはトゥスキアの辺境侯内の州都となった(この地位は神聖ローマ皇帝オットー1世が即位するまで保持された)。ルッカは首都となったが、ピサはそれをしのぐ最重要都市となった。
10世紀半ばのクレモナ司教リウトプランドは、ピサを『トゥスキア州の首都』(Tusciae provinciae caput)と呼んだ。そして一世紀後、トゥスキア辺境侯はピサ侯と普通に称されるようになった。
1003年、ピサは、ルッカの方針に反し、イタリアにおける最初のコムーネ戦争の主役となった。海軍の要衝としての観点から、9世紀以降サラセン人海賊の出現が市をその海軍力の拡大に駆り立てることとなった。続く年月、この海軍力がピサにさらなる拡大の機会を与えた。
828年、ピサ艦隊が北アフリカを猛襲した。
871年、ピサ艦隊はサラセン人からのサレルノ防衛の主力となった。
970年、ピサ艦隊は、カラブリア沿岸の前線で東ローマ帝国艦隊を打ち負かすという、オットー1世の遠征に強力な支援も行った。

11世紀
ピサの力は強固な海運国家として成長し始め、歴史的なイタリアの海洋国家4つのうち1つ(その他の3つとは、アマルフィ共和国、ジェノヴァ共和国、そしてヴェネツィア共和国)に数えられる伝統ある栄誉を獲得した、11世紀に頂点に達した(レプブリケ・マリナーレ)。
当時、ピサは非常に重要な貿易市であり、突出した地中海商人の艦隊及び海軍によって管理されていた。1005年、南イタリアのレッジョ・カラブリア略奪によってその勢力を伸ばした。ピサは絶え間なく、サルデーニャやコルシカを基地とし、地中海を手中に置こうとするサラセン人と対立した。
1017年、サラセン人王ムガヒドの敗北によって、ジェノヴァと同盟したピサがサルデーニャを陥落させた。この勝利は、ピサにティレニア海での覇権を与えた。ピサがその後サルデーニャからジェノヴァを追い出すと、新たな対立と敵対関係が2つの海洋共和国の間に生まれた。
1030年から1035年の間、ピサはシチリアにおいていくつもの敵対する町を打ち負かすのに成功し、北アフリカのカルタゴを征服した。
1051年から1052年、提督ヤコポ・チウリーニがジェノヴァからさらなる憤怒を挑発して、コルシカ島を征服した。
1063年、提督ジョヴァンニ・オルランドはサラセン人海賊からパレルモを奪ったノルマン人ルッジェーロ1世の支援へ向かった。パレルモでサラセン人から黄金の財宝を奪うことをピサ人は許された(ピサの大聖堂や有名なミラコーリ広場を建てるためであった)。
1060年、ピサはジェノヴァとの最初の戦いに従事しなくてはならなかった。ピサの勝利が、地中海でのその地位を堅固にすることとなった。
1077年 教皇グレゴリウス7世は1077年にピサ人によって施行された『海の慣習法』を承認した。そして皇帝ハインリヒ4世はピサに、長老会議で助言される独自の執政官を任命する権利を授けた。これは単純に当時の状況の確認であった。なぜならばそれまでピサ侯が既に権力から閉め出されていたからである。
1092年、教皇ウルバヌス2世は、ピサをコルシカ及びサルデーニャにおける宗主国として認め、同時に町の地位を大司教座の位へ引き上げた。
1088年、ピサは北アフリカのマフディア(現チュニジア)を略奪した。
4年後、ピサとジェノヴァの艦隊は、バレンシア王国のエル・シドを討つカスティーリャ王アルフォンソ6世を支援した。120隻ものピサ艦隊は第1回十字軍にも参加した。
1099年 そしてピサ人は1099年のエルサレム占領において助けとなった。聖地へ至るピサの艦隊は、東ローマ帝国領の島々をいくつか略奪する機会を忘れなかった。ピサ人の十字軍はピサ大司教ダゴベルト(のちにエルサレム総主教となる)に率いられていた。ピサとその他の海洋共和国は十字軍で、シリア、レバノン、パレスチナの東地中海沿岸諸都市で通商地点や植民地をつくった。特にピサ人はアンティオキア、ヤッファ、トリポリ、ティルス、ラタキヤ、アッコンに植民地をたてた。彼らはエルサレムとカエサリアにも別の所領を持ち、加えてカイロ、アレクサンドリアに、より小さな自治権を持つ植民地を抱えていた。もちろんコンスタンティノープルにも、皇帝アレクシオス1世コムネノスから特別な係留許可と通商権とを授けられていた。これら全ての都市で、ピサ人は特権と徴税免除権を授けられていた。しかし都市が攻撃された場合は防衛に貢献しなければならなかった。
12世紀 コンスタンティノープル東部にあるピサ人居住区は人口1,000人に成長していた。
12世紀の数年間、ピサはヴェネツィア共和国に打ち勝ち、東ローマ帝国と軍事同盟を結んだ国家であり、最も地位に揺るぎない商人となっていた。

12世紀
1113年 ピサと教皇パスカリス2世は共にバルセロナ伯とその他プロヴァンス及びイタリア諸侯(ジェノヴァを閉め出している)と組んでムーア人からバレアレス諸島を解放する戦争を始めた。マジョルカの王・王妃は鎖につながれてローマへ連行された。ムラービト朝はすぐに諸島を再征服したのだが、戦利品はピサ人が壮麗な建物の部品とするため持ち出していた(特に大聖堂建設のため)。ピサは西地中海における最高位を狙える地位を得た。
その後数年の強力なピサ艦隊は、ピエトロ・モリコーニ大司教に率いられ、残忍な戦闘の後にサラセン人を海へ投げ込んだ。短期間ではあるが、ピサのこのスペインにおける戦勝はジェノヴァとの敵対関係を悪化させた。ピサの対ラングドック貿易、対プロヴァンス貿易(ノーリ、サヴォーナ、フレジュス、モンペリエ)は、イエール、フォス、アンティーブ、マルセイユのような都市でジェノヴァ勢力の障害となったのである。
1119年~1133年 1119年にジェノヴァが、母国へ戻る途中の数隻のピサ船舶に攻撃したことで戦争が始まり、1133年まで続いた。2都市は互いに陸海で争ったが、戦闘行為は海賊のような猛攻と略奪に限られていた。
1135年6月 クレルヴォーのベルナルドゥスがピサ会議の主導者となり、彼は1130年に選出された教皇アナクレトゥス2世に対抗してインノケンティウス2世の権利を援護した。アナクレトゥス2世はノルマン人支持を得て教皇に選出されたが、ローマの外では正式な教皇に認められていなかった。インノケンティウス2世はジェノヴァとの対立を解消すべく、ピサとジェノヴァそれぞれの領域を取り決めた。 ピサは決定にならったが、ジェノヴァによって妨げられた。シチリア王ルッジェーロ2世とインノケンティウス2世の対立が関係していたためである。
1136年8月6日 海洋共和国の一つアマルフィ共和国(ノルマン支配に変わってから既に衰退し始めていた)を、ピサが征服した。ピサは港に停泊する船舶を破壊し、周辺地域の複数の城を略奪、そしてアヴェルサからルッジェーロ2世が送り込んだ軍を後退させた。この勝利がピサをその権力の頂点へ導き、ヴェネツィアと対等の位置へと押し上げた。2年後、ピサ兵がサレルノを略奪した。
続く数年、ピサはギベリン(皇帝派)の忠実な支持者の一つであった。これが皇帝フリードリヒ1世によってさらに評価された。
彼は1162年と1165年に2つの重要な公文書と、以下の特権を授けた。『ピサの田園地帯における司法権から帝国が手を引くこと、ピサ人は神聖ローマ帝国全土、チヴィタヴェッキア、ポルトヴェーネレ、パレルモの半分、メッシーナ、サレルノ、ナポリ、ガーエタ全体、マーザラ・デル・ヴァッロ、トラーパニなど沿岸都市で貿易の自由が授けられること、シチリア王国の全ての都市でピサ商人の家が通りに建てられること』。これらの特権の一部は後にハインリヒ6世、オットー2世、フリードリヒ2世らによって追認された。これらはピサの権力の最高潮を記していた。しかし、ルッカ、マッサ、ヴォルテッラ、フィレンツェといった都市のピサへの敵意にも拍車がかかった。これら諸都市は海に向かって横切り自国の力を拡大するもくろみがあった。ルッカとの衝突も、モンティノーゾ城の所有と、フランチジェナ街道(ローマ=フランス間の主要交易道)の掌握という狙いに関係していた。ピサの突然の権力拡大は、ジェノヴァとの別の戦いへ導くことになっただけだった。
ジェノヴァは南フランスの市場で広範囲に優勢な地位を獲得していた。戦争は1165年にローヌ川で、ピサの通商中心地へ護送していたピサ船を、ジェノヴァと同盟者であるトゥールーズ伯が攻撃したことで始まった。これは失敗した。ピサは他方でプロヴァンス伯とも同盟していたのである。戦争は1175年まで決定的な勝利のないまま続けられた。摩擦の別の局面は、ピサ、ジェノヴァともハインリヒ6世によって特権を授けられていたシチリアで起きた。
1192年、ピサはメッシーナ征服を成し遂げた。この挿話は、1204年のジェノヴァのシラクーザ占領という全盛を極めた戦いによって、続いて起きた。後、シチリアの貿易地点は新教皇インノケンティウス3世が即位したことで失われた。彼の前任者ケレスティヌス3世(フィレンツェ率いるトスカーナのゲルフ同盟と同盟していた)によってピサが破門された見解を排除したにもかかわらずである。すぐに彼はジェノヴァとの条約を明文化し、南イタリアでのピサの存在がさらに弱まることになった。
南ティレニア海でジェノヴァが優勢であるのと反対に、ピサはスペイン・フランスの伝統的な基盤との協力関係を強化していた(マルセイユ、ナルボンヌ、バルセロナなど)。そしてアドリア海を治めるヴェネツィアへ挑もうとしていた。
1180年、ピサとジェノヴァはティレニア海及びアドリア海での非集団的条約に同意した。しかしコンスタンティノープルの皇帝マヌエル1世コムネノスが死んだことで状況が変化した。すぐにヴェネツィアの護送船団が東ローマで攻撃されたのである。ピサはアンコーナ、プーラ、ザダル、スプリト、そしてブリンディジとの貿易・政治的法令に署名した。
1195年、ピサの船隊はヴェネツィアからの独立を守るプーラへ到着したが、セレニッシマ(ヴェネツィア共和国の別称)はすぐ反乱を起こした海港を再平定し遂げたのである。
1年後、2都市はピサにとって好ましい結果となった和平条約に署名した。
しかし1199年、ピサ人がプッリャにあるブリンディジ港を封鎖するという乱暴をジェノヴァに対して働いた。続く海戦ではピサはヴェネツィア艦隊に破られた。
1206年に終わった戦争で、ピサはアドリア海への拡大の野望を全てあきらめる条約を結んだ(アドリア海での既にある貿易地点は保持された)。ピサ=ヴェネツィア共闘における観点から、ジェノヴァの台頭に対抗して団結し、時には対コンスタンティノープル貿易による恩恵の増大に手を結んだのだった。

13世紀
1209年と1217年、レーリチでジェノヴァとの敵対関係の最終解決のため2度の会議が開かれ、20年間の和平条約が結ばれた。しかし1220年、フリードリヒ2世がチヴィタヴェッキアからポルトヴェーネレまでのティレニア海沿岸を自分の宗主権が及ぶ地域と確認した。反ピサを旗印に掲げたジェノヴァとトスカーナの反感が再熱したのである。その後の数年間のピサは、ガルファニャーナでルッカと激突し、カステル・デル・ボルコでフィレンツェ軍によって敗退させられた。ピサの強力な皇帝支持派としての位置が、神聖ローマ皇帝と格闘していた教皇に対してこの町を全く正反対にしてしまっていた。そしてついに教皇は北サルデーニャにあるピサの所領と町を奪い取ろうとした。  
1238年、グレゴリウス9世は反皇帝派であるジェノヴァ=ヴェネツィア間の同盟関係を樹立させ、結果としてその同盟は反ピサ同盟にもなった。一年後、グレゴリウス9世は皇帝フリードリヒ2世を破門し、1241年にはローマで反皇帝会議が招集された。1241年5月3日、皇帝の息子エンツォ率いるピサの連合艦隊とシチリア船団が、北イタリアとフランス、トスカーナの前にあるイーゾラ・デル・ジーリオから運んできた高位聖職者を乗せたジェノヴァの護衛船へ攻撃を仕掛けた。ジェノヴァは25隻の船とおよそ1000人の船乗りが失われ、2人の枢機卿と1人の司教は身代金のため捕虜として連れ去られた。この目立った勝利の後、ローマでの会議は失敗した。しかし、ピサは破門された。この極端な処置は1257年に除かれただけだった。いずれにしろ、トスカーナ諸都市はコルシカの都市アレーリアを征服するのに好ましい位置にあり、その地の利を利用しようとしていた。1243年にはトスカーナ諸都市がジェノヴァを包囲しようと準備さえした。
リグーリアにあるジェノヴァ共和国はしかし、この一撃から素早く立ち直り、数年前にピサが征服していたレーリチを、1256年に奪い返した。
地中海での大きな拡張と商人階級の突出は、市の慣習における修正を勧告した。施政官のいるシステムは1230年に廃止され、新たな市の統治者は政軍の指導者として市民隊長(Capitano del Popolo)と名付けられた。これらの改正にもかかわらず、征服地と共和国本国は、デッラ・ゲラルデスカ家とヴィスコンティ家の競争関係にある2貴族によって悩まされた。1237年、大司教と皇帝フリードリヒ2世がライバル関係の2家を和解させようと仲介したが、緊張は止まなかった。1254年、市民が暴動を起こし、コムーネにおける彼らの政治代表として12人のアンツィアーニ・デル・ポポロ(Anziani del Popolo、市民の長老)を押しつけた。彼らも立法権のある評議委員(貴族からなる)を補足し、新たな市民の評議委員とともに、主要なギルドや市民の会社の長老によって構成されていた。これらは、主要な全体議会と立法機関の法律を批准する権力を持っていた。

衰退
アルベルティーノ・モロシーニが指揮するピサ最高艦隊が、1284年8月6日のメローリアの海戦で、ベネデット・ザッカリーアとオベルト・ドーリア率いるジェノヴァ艦隊の輝かしい高等戦術に大敗を喫した時、ピサの衰退が始まった。この敗北でピサの海運力は終わり、共和国は二度と以前のような力を取り戻すことはなかった。1290年、ジェノヴァはピサの主要港であるピサーノ港を破壊した。そして、スキピオ・アエミリアヌスがカルタゴにしたように、塩で覆ったのである。ピサ周辺地域は、メローリア海戦によって数千人の船員を失った痛手から復活するのをピサに許さなかった。一方でリグーリア地方がジェノヴァへ十分な船員を補償したのである。品質が劣ったけれども品物が貿易で行き来し続けたが、アルノ川がその流れを変え始めた時、終焉がやってきた。川から上がって市の港へ入るガレー船を妨げるようになったのである。そして近郊でマラリアの流行がみられるようになった。1324年のうちに、サルデーニャ全体がアラゴン王国に奪われた。
常に皇帝派であったピサは、14世紀の過程で、コンドッティエーレであるウグッチョーネ・デッラ・ファッジュオーラ指揮のピサ軍はモンテカティーニの戦いでフィレンツェ共和国を敗退させさえし、ピサは再び軍事力を作り上げようとした。しかしそのすぐ後、ピサは共和国内の内部闘争によって二分され、力を失ったことで弱体化し、1406年にフィレンツェに占領された。1409年、ピサは大シスマ解消を目的としたピサ公会議の場となった。さらに15世紀、港が堆積され海から切り離されたことで、海への行き来がさらに困難になった。1494年にフランス王シャルル8世はナポリ王位を請求してイタリア諸国へ侵攻、フィレンツェ共和国が敗退し、ピサは第二次ピサ共和国として自治権を再生する機会をいきなりつかんだ。
しかし新たな自由は長くなかった。15年間の戦争と包囲戦の後、ピサは1509年にアントーニオ・ダ・フィリカヤ、アヴェラルド・サルヴィアーティ、ニッコロ・カッポーニ率いるフィレンツェ軍に再征服されたのである。トスカーナ第1の港の地位はリヴォルノに奪われた。ピサは主として第2の地位に甘んじ、1343年創立のピサ大学の存在によって文化的役割に駆り立てられた。その衰退ぶりは人口に明らかに見られ、中世以後ほぼ不変であった。
ピサは科学者ガリレオ・ガリレイの生誕地である。未だ大司教座がとどまっている。

参考URL:ピサWiki
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by cluracan | 2012-03-21 15:41 | Discovery

【港・集落】 ハンブルク

北ドイツの重要な交易港として栄えている都市。内陸に豊富な鉱脈があり、鉛、スズ、銅や鉄など、多種の鉱石が産出する。

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6世紀には、エルベ川河口に港湾都市として存在しており、バイキングの襲来を受けている。
808年、カール大帝によって前哨基地ハンマブルクの城塞がきずかれ、
811年にはキリスト教の布教をさらに推進する目的で、砦の近くに大聖堂を建設し、「ハンブルク」としての基礎が整えられる。この大聖堂はまもなく北ヨーロッパのキリスト教文化の中心となったが、しばしば敵対する民族に攻撃された。
834年には大司教座がおかれたが、北方民族の略奪をうけて、
848年に近くのブレーメンに移された。
1189年 ハンブルクはデーン人やスラブ人の襲撃にももちこたえ、1189年には神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世から船舶航行の特許状をうける。この特許状は第3回十字軍への貢献の報償としてあたえられたもので、商業上の特権をみとめるものだった。 また、関税特権、経済特権を獲得したことで交易都市としての発展が進み、
1241年にリューベックと、
1249年にブレーメンと防衛同盟をむすんだ。これはやがてハンザ同盟の成立へとつながっていく。
ハンザ同盟の一員としてハンブルクは富裕な有力都市のひとつとなり繁栄し、
1410年、1510年、1618年と三度神聖ローマ皇帝から自由都市の特権を与えられ、自治権を獲得維持した。
1529年には宗教改革をうけいれ、ルター派やカルバン派、そしてユダヤ人の避難場所となった。しかし三十年戦争により、ハンブルクの商業は大きな打撃をこうむった。
1783年にアメリカと通商関係をむすんだことで短期間の再興をみるが、その繁栄もナポレオン戦争で終わりをつげ、
1810年にはナポレオン1世の軍隊に占領される。

参考URL:ハンブルクWiki

ハンザ同盟
「ハンザ」は古高ドイツ語。現代ドイツ語では 「ハンゼ」(Hanse)と呼ばれる。古高ドイツ語「ハンザ」は「団体」を意味し、もともと都市の間を交易してまわる商人の組合的団体のことを指した。
ハンザ同盟の中核を占める北ドイツの都市は神聖ローマ帝国の中で皇帝に直接忠誠を誓う帝国都市であり、相互に独立性と平等性を保つ緩やかな同盟だったが、経済的連合にとどまらず、時には政治的・軍事的連合として機能した。しかし同盟の中央機構は存在せず、同盟の決定に拘束力も弱かったので、政策においてはそれぞれの都市の利害が優先された。
リューベック、ハンブルク、ブレーメンなどかつてのハンザ同盟の中心都市は「自由ハンザ都市」を称して中世以来の都市の自由をうたっている。

ハンザ同盟の発祥は12世紀にまで遡ることができる。この頃、ドイツを中心に国際的な都市間交易に従事する交易商人による「ハンザ」があらわれ、団体構成員の交易特権を得るための運動を行った。ハンザ商人たちは自身の所属する都市においては都市参事会などへの参加を通じて政治に参加する有力市民であり、彼らの相互援助の都市間ネットワークを通じて都市間で条約が結ばれることにより、都市のハンザも形成されていった。その中心となったのが、1159年にザクセン公のハインリヒ獅子公によって建設されたリューベックだった。
リューベックはハンブルクと商業同盟を結び、またゴトランド島などバルト海沿岸に進出して東方植民によりこの方面の各都市に散らばっていたドイツ商人の組合の主導権を握った。
1358年には都市そのものが商人ハンザの組合に加入することで外地商人の組合である商人ハンザと、商人の本国都市の同盟である都市ハンザが統合され、ドイツ・ハンザ(Deutsche Hanse)、すなわちハンザ都市同盟が成立した。
ドイツ商人の商業活動の広がりに応じてハンザ同盟の商館の置かれる範囲は拡大し、西はイングランド(イギリス)のロンドンから東はルーシ(ロシア)のノヴゴロドまで広がった。同盟はロンドンとノヴゴロドに加えてフランドルのブルッヘ(ブリュージュ)、ノルウェーのベルゲンの4都市を「外地ハンザ」と呼ばれる根拠地とし、その勢力はヨーロッパ大陸の内陸から地中海にまで及んだ。同盟に加盟する都市は、ドイツ人の広がりを反映して必ずしもドイツ都市に限られず、15世紀の最盛期には加盟都市は200を越えた。
ハンザ同盟の加盟各市は十数名程度の市参事会によって統治され、遠隔地交易で財をなしたハンザ商人が参事会を構成する都市貴族として寡頭支配を行った。同盟全体の重要な意志決定は年に1度、リューベックにおいて行われるハンザ会議において審議された。
ハンザ同盟の扱う交易品としては、ブリュッヘを通じて貿易されるフランドルの織物のほか、バルト海のニシンが重要である。毎年、夏から秋にかけてのニシン漁期になると北ドイツの各ハンザ都市から北欧に向けてニシン買い付けの商船隊が派遣され、年間数十万トンのニシンが塩漬けにされてヨーロッパ各地に輸出された。またドイツ騎士団領からは木材、琥珀、ポーランド王国からは穀物、ロシア方面からは黒貂、熊、リスなどの毛皮が輸出された。
政治的・軍事的連合としてのハンザ同盟は、1370年、1435年の2度にわたってデンマークとの戦争に勝利して諸特権を認めさせた。しかし15世紀にはカルマル同盟を結んで北欧諸国を統合したデンマークに敗れてバルト海の覇権を失った。
同じ15世紀には、ヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合と、ポーランド王国が庇護したプロシア連合加盟諸都市の政治経済の繁栄が最盛期を迎え、これらに対するハプスブルク家と神聖ローマ帝国の支持による、それまでバルト海東岸と南岸を支配していたドイツ騎士団の弱体化、北ドイツで勢力を伸ばした領邦君主による自領内都市への圧迫などの外圧が重なって都市のハンザ脱退が続き、同盟は衰退していった。また国王、ブルゴーニュ公による国家的支援を受けたイングランド、ネーデルラントの商人が北欧へ進出してハンザ同盟の商圏に食い込みハンザ同盟の独占体制を脅かしたことは、同盟の存在意義を揺るがした。
16世紀には大航海時代によってヨーロッパの商圏の中心軸がバルト海・地中海から大西洋・北海に移ったことが大きく影響し、この世紀の終わりにはハンザ同盟は実質上ほとんど活動を停止していた。
そして、17世紀の三十年戦争による領邦国家の成立がハンザ同盟の存続に終止符を打った。わずか8都市が代表を送るのみに終わった1669年のハンザ会議を最期に同盟は機能を完全に失い、実質上終焉した。17世紀以降に入るとバルト海の貿易圏は、すでにスウェーデンとオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が主流となっており、三十年戦争によってドイツの国土が疲弊していたことも終焉に拍車をかける事となった。
ただし、ハンブルクとブレーメンだけは自立性を保ち、現在のドイツでも単独の州としてそれぞれ「自由ハンザ都市ハンブルク」「自由ハンザ都市ブレーメン」を正式名称として、かつてのハンザ同盟の名残を現在に伝えている。

参考URL:ハンザ同盟Wiki
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by cluracan | 2012-03-21 15:13 | Discovery

【港・集落】 バンジェルマシン

カリマンタン島南岸の港。14世紀にはマジャパヒト王国の支配を受ける。現在はイスラム教の影響下にある。郊外には先住民のダヤク民族が住んでいる。

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オランダは、19世紀にバンジャル王国の首都バンジャルマシン地域へ干渉をはじめた。
1850年に王家の中に対立が生まれ三つのグループに分裂した。オランダはこれを利用し、王国の政治に介入しはじめた。
1851年、オランダはその中の一つのグループを懐柔しパンゲラン・タムジドゥラーを王に任命した。しかし、その王は民衆に支持されていなかった。
1859年にグループ同士の争いからバンジャルマシン戦争が起こった。オランダは、前に擁立したタムジドゥラー王を廃位し、アンタサリ派のパンゲラン・アンタサリを擁立しようとしたが拒否された。このとき、オランダは本社機能をマルタプラへ移した。
1860年、オランダは、この地域全体(王国)を支配地域にしてしまった。
1862年、オランダは民衆に支持されているヒダヤトゥラー派のパンゲラン・ヒダヤトゥラーを捕らえ流刑に処した。しかし、戦争は終わらなかった。その後の戦争で、民衆に任命されて王となっていたパンゲラン・アンタサリは傷を負い同年死去した。その息子達によってオランダに対する抵抗運動は続けられた。

参考URL:バンジャルマシンWiki

カリマンタン島(ボルネオ島)
4世紀末~5世紀初頭 島の東部にクタイ王国が貿易で繁栄。当時の石碑が残されている。東南アジア地区における、ヒンドゥー教の最も初期の影響によって、東ボルネオのマハカム川沿いのクタイで発見されたPallava scriptの彫られた4世紀後半の日付が残る石柱が作られた。
古代の中国、インド、ジャワの書簡によると、西暦1000年位まで、ボルネオ西海岸の街は、貿易ルートの一部である貿易港であった。インド人は、スマトラ島と間のボルネオ西部の島を含めて、ボルネオを「金の土地(Suvarnabhumi) 」及び「樟脳の島(Karpuradvipa)」と名づけた ジャワ人はボルネオを「Puradvipa」あるいは「ダイアモンド島」と名づけた。
サラワクの川のデルタ地帯における考古学的な発見物により、この土地が6世紀から西暦約1300年までの間、インドと中国の貿易の中心地として栄えていたことを示している。
15世紀、明の鄭和が「婆羅」に寄航したとある。婆羅はボルネオの中国語表記。
16世紀頃 西欧の商人が渡来し始める。

参考URL:ボルネオ島Wiki
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by cluracan | 2012-03-21 14:59 | Discovery

【港・集落】 パレンバン

スマトラ島南部北岸にある街。東西交易に権勢を振るったシュリーヴィジャヤ王国の首都があった。

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この都市はかつてはシュリーヴィジャヤという仏教徒の王国の一部で古代の首都だったが、1025年にインド南部のチョーラ朝からの海賊の襲撃を受けたことによって次第に勢力を失っていった。シュリーヴィジャヤ王国の首都はやがて北方のジャンビ-マラユに移った。
1602年にはオランダ東インド会社が創立され、以降インドネシアは長年に渡りオランダの植民地であり続けたため、主要地であったパレンバンでは当時の洋式建築遺跡が見られる(オランダ領東インド)。

参考URL:パレンバンWiki

シュリーヴィジャヤ王国
425年頃 マラッカ海峡周辺の地域に外側から最初に強い文化的影響を与えたのはインドを起源とするシヴァ信仰(のちのヒンドゥー教)であり、また、スマトラには仏教が425年頃までには伝来している。
500年頃 シュリーヴィジャヤ王国の起源となる勢力が現在のパレンバン周辺で発展したものと考えられ
600年頃 中国の記録では、ジャワ島の3つの王国と同じようにジャンビとパレンバンを本拠としたスマトラの2つの王国についてふれている。
7世紀 唐の僧、義浄がインドへの旅の途次、この地に長期間滞在し、記録をのこした。彼の記録は7世紀後半のシュリーヴィジャヤについての貴重な資料のひとつとなっている(詳細後述)。
7世紀から9世紀にかけて シュリーヴィジャヤは貿易や征服を通じて地方の支配を始め、ジャンビ王国を乗っ取った。王国の伸張は、マレー文化がスマトラ島やマレー半島、ボルネオ島西部などの各地にひろがるのを助けた。
7世紀後半 南インドの文字で記された碑文資料は、パレンバン、バンカ島、ジャンビ、スマトラ南端のパラス・パセマなどから出土しており、いずれも7世紀後半のものである。これらの碑文から、当時のシュリーヴィジャヤでは大乗仏教がおこなわれていたこと、兵2万人の動員が可能であったこと、スリ・ジャヤナーシュという王が「幸ある園」を建設したことなどが知られる。
741年 「室利仏逝」の記録は、741年の朝貢を最後に姿を消している。
775年 マレー半島中部のナコンシータマラート(タイ王国ムアンナコーンシータンマラート郡)で発見された、775年のサンスクリット語の碑文には、ヴィシュヌという名の「シャイレーンドラ王家のシュリーヴィジャヤ王」が3寺院を建立したと記されていることから、この時期、シュリーヴィジャヤ王国がシャイレーンドラ王家に支配されるようになったということがうかがわれる。
741年以降 また、741年の最後の遣使ののち、インドネシアの地域から中国へ遣使をしたのはジャワ島の「訶陵」という勢力であった。この「訶陵」からの中国への遣使は670年にいったん中断し、768年に再開されているところから、シュリーヴィジャヤ王国は8世紀後半より訶陵(シャイレーンドラ朝)の影響下にあったと考えられ、この状態は9世紀後半までつづく。碑文の存在は、ジャワの勢力がスマトラのみならずマレー半島にもおよんでいることを物語る。その後、都は北西方のジャンビにうつり、中国史料では「三仏斉」と称される勢力がマラッカ海峡をのぞむ地域一帯に出現し、10世紀初頭以降、中国へ使節を派遣している。
こののち、ジャワ島のクディリ朝のダルマヴァンシャ王は、シュリーヴィジャヤの交易独占を阻止しようと、992年からマレー、スマトラ各地に侵攻した。しかし、1016年に地方領主の1人であったウラウリ王の反乱によって、ダルマヴァンシャが殺害された。その背後に、シュリーヴィジャヤの力が働いていたのではという説がある。
1025年に南インドを支配していたチョーラ朝のラージェンドラ1世の軍勢の遠征でシュリーヴィジャヤは打撃を受けて衰退した。スマトラ島はジャワのシンガサリ朝、続いてマジャパヒト王国からの征服にさらされた。同時期、アラブやインドの商人との接触を通じて広まったイスラム教徒がスマトラ島の地方にアチェ王国を建国した。
13世紀の後半までに、サムドラ王国の君主はイスラム教徒に改宗した。同じ頃シュリーヴィジャヤ王国はクメール王朝の、後にスコータイ王朝の属国になった。
1414年までにシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子パラメスワラ(英語版)がイスラム教に改宗し、マレー半島のマラッカでスルタン制が始まった。
1511年8月24日 マラッカ王国は1511年8月24日にポルトガルによって征服された。

参考URL:シュリーヴィジャヤ王国Wiki
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by cluracan | 2012-03-21 14:42 | Discovery


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