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【港・集落】 ストックホルム

13世紀中ごろ、スウェーデンのビルイェル・ヤールによって築かれた都市。14の島を橋でつないだ構成になっている。鉱物が豊富な土地柄である。

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13世紀の半ばにスウェーデン東部のメーラレン湖東にある小島スタツホルメン島に砦として築かれたのが最初である。
1250年代に即位したとされるフォルクンガ朝初代国王ビルイェル・ヤールによる。砦としてだけでなく、都市としての機能も形成されて行く。戦闘に備えて、島を囲むように丸太の柵が巡らされていた為に、「丸太の小島」と呼ばれるようになった。これはスウェーデン語で「ストックホルム」と言う。
13世紀中葉以降、バルト海沿岸のハンザ同盟都市との交易で、成長。カルマル同盟下で、デンマーク王家にとって重要な都市となっていく。
1520年、クリスチャン2世がストックホルムの血浴と呼ばれる独立派の処刑を行う。結果として、独立運動が高揚。
1523年にスウェーデンは、グスタフ1世の下でスウェーデン王国として独立、その首都として人口が増加。
1600年には1万人に達する。
17世紀は、スウェーデンが列強の一つに成長した時期であり、ストックホルムの人口も1610年から1680年の間に6倍に膨れ上がった。スカンジナビアの諸都市と国内の諸都市を結ぶ交易を、ストックホルムが独占していく。
1710年、この地でもペストが猛威を振るう。さらに大北方戦争の敗北で、都市の発展に翳りが見えたが、「自由の時代」を経てグスタフ3世の治世で文化面で「ロココの時代」を迎える。

参考URL:ストックホルムWiki
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by cluracan | 2012-02-24 17:05 | Discovery

【港・集落】 スエズ

紅海の最北端にある街だ。内陸を経由する交易や、メッカに巡礼する人々の通過点として古くから栄えた。エジプトとアラビアの産物が流通している。

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7世紀に現在のスエズの街の近くにあった、ギリシャ語で浣腸あるいは海の潮汐を意味する Κλύσμα に由来するラテン語名 Clysma またはトルコ語名 Kolzum、アラビア語名 القلزم, al-Qulzum として知られる町が、ナイル川と紅海を結ぶ運河の終点にあった。
16世紀にはトルコの海軍基地があった。

参考URL:スエズWiki

スエズ運河に関して
紀元前1897年から紀元前1839年 エジプト第12王朝ファラオのセンウスレト2世やセンウスレト3世など伝説的セソストリスらは、ナイル川と紅海を繋ぐ運河の建設に乗り出したと言われる。当時の紅海は現代よりも北まで海進しており、現在のグレートビター湖やティムサ湖も海域にあった。
紀元前1470年 ハトシェプスト在位時に行われたプント遠征譚を描いたレリーフには、遠征軍がプントからの帰路が航海だったことを表現している。この事から、当時紅海とナイル川を結ぶ航路が存在したという提言がある。
紀元前600年頃にネコ2世はブバスティスとピション(ヘリオポリス)を東西に貫きワジ・トゥミラートを通る運河建設に着手したとギリシアのヘロドトスが著した『歴史』にあり、それをヘリオポリス湾と紅海まで延長したと考えられる。しかし、彼の事業は完遂されなかったとも伝わる。
ネコ2世の運河は、古代エジプトを征服したペルシアのダレイオス1世によって完成された。
プトレマイオス2世から約100年後のクレオパトラ7世の頃には、ナイル川デルタのペルシア川支流に溜まったシルトによって、東西を結ぶ運河はどれも航行不能な状態になってしまった。
8世紀までの時期、オールドカイロと紅海を結ぶ運河が存在した。
767年 アッバース朝のカリフであるマンスールがアラビア半島の敵対勢力に対抗するため、運河を閉鎖したと伝わる。

参考URL:スエズ運河Wiki
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by cluracan | 2012-02-23 15:20 | Discovery

【港・集落】 シラクサ

シチリア島にある街。古代ギリシャの時代、アテナイに匹敵するほど栄えた。カルタゴに組してローマに滅ぼされて以降は、支配勢力が次々と変わった。産物は食品が中心だが、珍しい薬草が採れる。

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紀元前734年頃、ギリシアのコリントスの植民者たちが、低湿地帯を意味するシラコ(Sirako)と名づけた。土地が肥沃であり、また原住民たちは彼らに好意的であった。都市は発展し、地中海においてギリシアの最も繁栄する都市国家となった。古典ギリシア語での名称はシュラクサイ。
紀元前5世紀後半、ペロポネソス戦争でシチリアでも勢力を拡大しようとするアテナイに対してスパルタと結んで戦った。シュラクサイはアテナイの敵であるスパルタに援軍を送り、アテナイの船を破壊したり、島を包囲して餓死させるなどして、スパルタの勝利に貢献した。
紀元前4世紀初頭、僭主ディオニュシオス1世はカルタゴに対して戦争を仕掛け、シチリア島全域を支配することに成功。彼の死後支配権を継承した子のディオニュシオス2世は親戚のディオンによって廃位された。プラトンの弟子でもあり、哲人政治の理想を追い求めていたディオンは暗殺され、数名の僭主の後にディオニュシオス2世が復位した。その後、コリントスよりティモレオンが派遣されてきて、彼はディオニュシオス2世をはじめシチリアから僭主を一掃し、さらにヒケタスと結んで攻め込んできたカルタゴ軍をクリミソス川の戦いで破り、撃退した。
紀元前317年にアガトクレスが僭主となり、僭主制が復活した。
シラクサ出身の最も有名な人の一人が、自然哲学者のアルキメデスである。彼の発明品の中には、第二次ポエニ戦争におけるローマによるシラクサの包囲に対抗するための軍事兵器もあった。アルキメデス考案の兵器はローマ軍を大いに苦しめ、シラクサは3年間持ちこたえたが、紀元前212年に陥落した。落城の際、攻城戦を指揮したローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスはアルキメデスを殺さぬよう厳命していたが、アルキメデスは彼と気付かれずにローマ兵によって殺された。

年月をかけゆっくりと衰退しながらも、シラクサはシチリアにおけるローマ政権の首都の地位にあり、プラエトルの配置がされていた。また、市は帝国の東西の間にある通商の重要港のままだった。市のキリスト教化は、タルススのパウルスと、シラクサ初代司教であった聖マルツィアーノによって広がった。マルツィアーノは、シラクサを西方における改宗の一代中心地としたのである。この迫害の時代に、どっしりとしたカタコンベが掘られた。
535年12月31日 ヴァンダル族支配の後、シラクサとシチリア本島は東ローマ帝国のベリサリウスによってローマ人の元に取り戻された。
663年から668年 シラクサはコンスタンス2世の宮廷が置かれ、全シチリア教会の首都大司教座がおかれた。
878年に起きた別の包囲戦は、市への情け容赦ない略奪で終わった。そして2世紀にも渡るイスラム支配が始まったのである。シラクサは島の首都の地位をパレルモに奪われた。大聖堂はモスクに変えられ、オルティジア島の建物は次第にイスラム様式に沿って再建された。どのようであれ、市は、重要な通商関係を保ち、文化と芸術が同時期に華開いた。
12世紀のシチリア人詩人で最重要の人物であるイブン・ハムディスは、シラクサに暮らしていた。
1028年、東ローマの将軍ゲオルギオス・マニアケス(en:George Maniaces)がシラクサを再征服し、聖ルチアの聖遺物をコンスタンティノープルへ送った。オルティジア島の最南端にある城は、1239年にホーエンシュタウフェン家のフェデリーコ2世の命で建設されたが、マニアケスの名前が冠されている。その後、シラクサはホーエンシュタウフェン家の支配に入った。
1085年 ノルマン人がサラセン人最後の要塞の一つシラクサへ入った。ルッジェーロ1世とシラクサ伯ジョルダーノが夏季の長い包囲戦の末勝ったのである。新たな地区が建設され、他の教会と同様に大聖堂が復興した。
1194年 シュヴァーベン家の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世がシラクサを占領した。
1205年から1220年 短期のジェノヴァ支配の後、シラクサは皇帝フリードリヒ2世が奪回した。彼はマニアーチェ城、司教宮殿、ベッロモ宮殿の建設を始めた。フリードリヒの死で社会的不安と封建制の無秩序の時代が始まった。アンジュー家とアラゴン王家の争いで、シラクサはアラゴン側に立ち、1298年にアンジュー家を敗退させた。この褒美として、宗主国アラゴンから多大な特権を授けられた。地元の有力貴族の優越ぶりが、アベラ、キアラモンテ、ナヴァ、モンタルトへの城の建設で見せつけられた。
1542年と1693年の二度、破滅的な地震に見舞われた。
1729年にはペストが大流行した。

参考URL:シラクサWiki
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by cluracan | 2012-02-22 17:20 | Discovery

【港・集落】 ジョファール

アラビア海沿岸に位置する港町。モンスーンの季節には大量の雨が降る。

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位置的にドファール(Dhofar)地方にあるサラーラのことと思われる。
インド洋に面した港町で、中東、インド、アフリカへの入口となる戦略的重要性は古来より変わらず、古代の港町の遺跡スムハラムがあるほか、街の15km南西にあるサラーラ港はインド洋でも有数のコンテナ港として繁栄している。
ドファール州内の交易都市や港湾都市の遺跡、乳香の原料となる木々の自生地は、「乳香の土地」の名で知られている。
街の近郊や周囲の山地には、モンスーンの時期には緑の木々が生い茂る。こうした豊かな植生は家畜の群れを養い、ヒョウやハイエナ、フラミンゴなど東アフリカとも共通する野生生物を育んできた。
サラーラ付近は古い歴史でも知られる。古代の城郭都市・スムハラム(Sumharam)は、紀元前100年から400年にかけてはローマ帝国とインドを結ぶ港町として、また乳香の積み出し港として繁栄した。またコーランにも登場する旧約聖書の預言者・ヨブ(アイユーブ)の墓とされるものがジャバル・カラ山中にある。

参考URL:サラーラWiki
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by cluracan | 2012-02-21 12:32 | Discovery

【港・集落】 ジャンビ

スマトラ島の中央部に位置する、ジャンビ人の街。熱帯雨林に覆われ、林業が盛ん。イスラムの影響を強く受けているが、郊外には仏教の建物も見られ、歴史や文化が混在している。

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Jambi was the site of the Srivijayan kingdom that engaged in trade throughout the Strait of Malacca and beyond. Jambi succeeded Palembang to the south (a military and economic rival) as the capital of the kingdom. The move to Jambi was partly induced by the 1025 raid by pirates from the Chola region of southern India, which destroyed much of Palembang.
In the early decades of the Dutch presence in the region (see Dutch East India Company in Indonesia, when they were one of several traders competing with the British, Chinese, Arabs, and Malays, the Jambi sultanate profited from trade in pepper with the Dutch. This relationship declined by about 1770, and the sultanate had little contact with the Dutch for about sixty years.

<正しくないと思うが翻訳>
ジャンビはマラッカ海峡以遠全体の貿易を行うスリビジャヤ王国の拠点でした。ジャンビはパレンバン以南(軍事的、経済的ライバルとして)に対して、王国の首都として役割を果たしました。
1025年 パレンバンの大部分を破壊したインド南部地域のチョーラからの海賊の侵略によって、ジャンビへの移行が行われました。
オランダがジャンビ地域に存在していた(英国、中国、アラブ、マレーと競合して貿易を行っていた一つのインドネシアの東インド会社を参照)初期の数十年、ジャンビのスルタンはオランダとのコショウ交易によって利益を享受していた。
この関係は1770年頃に減少し、スルタンは60年ほどオランダとほとんど接触しなかった。

参考URL:Jambi Wiki
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by cluracan | 2012-02-20 17:24 | Discovery

【港・集落】 ジャカルタ

ジャワ島北西岸に位置する街。もとは「スンダ・クラパ」と呼ばれた、スンダ人の小さな集落だった。スンダ人はパジャジャラン王国を築き、マジャパヒト王国の侵攻にも屈しなかった。

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ジャカルタはもともと、16世紀はじめまで、西ジャワのパジャジャラン王国の港町、スンダ・クラパ (Sunda Kelapa) として発展した。
14世紀に成立した中国・明朝のもとでインドネシアの海域は册封体制下におかれ、アジア域内における交易ネットワークに組み込まれていた。スンダ・クラパもまた、この海域の他の港市とともに、中国との朝貢貿易や私貿易、中継貿易で重要な港町として発展した。
1527年 この地を征服したバンテン王国のスルタン、ファタフィラは、スンダ・クラパをジャヤカル(Djajakarta = 偉大なる勝利)と改名した、。
16世紀末 この海域でのポルトガルの香辛料独占に対抗するため進出してきたオランダは、西ジャワの王族の内紛に介入し、その一方に軍事援助を行う見返りに、ジャヤカルタを手に入れた。
1619年、オランダ東インド会社総督、クーン (Jan Pieterszoon Coen) がジャヤカルタに要塞を建設し、この地をオランダの先住民バタウィにちなんで、バタヴィアと改称した。
その後、オランダ東インド会社の基地として、さらに後にはオランダ領東インド国家の中心都市として発展していくことになった。

参考URL:ジャカルタWiki
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by cluracan | 2012-02-19 21:16 | Discovery

【港・集落】 シエラレオネ

アフリカ西海岸の街。年間を通じて気温が高く、熱帯性の農業が盛んである。また、近郊にはダイヤモンドの大規模な鉱脈があるようだ。

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1447年-ポルトガル人航海士アルヴァロ・フェルナンデスが上陸。
1462年-ポルトガルのペドロ・ダ・シントラ (Pedro da Cintra) がシエラレオネの半島(フリータウン半島)に到着し、『ライオン山脈』と命名。
1562年-イギリスの奴隷商人ジョン・ホーキンスが現在のシエラレオネにあたる地域に到着し奴隷を獲得する。
1579年-イギリスの奴隷商人フランシス・ドレイクが到着。
1605年-ポルトガルのイエズス会士バルタサール・バレイラが定住。
1610年-バレイラはシエラレオネから去るが、その後もイエズス会士やカプチン会士による布教が続く。
1664年-シエラレオネのタッソ島にあるイギリス城砦がデ・ロイテル率いるオランダ艦隊に攻撃される。
1672年-イギリスがシエラレオネにあるヨーク島に王立アフリカ会社を創立する。
1704年-フランスの軍艦がヨーク島にある王立アフリカ会社を破壊。
1719年-王立アフリカ会社はベンス島(現ボンチ島)に拠点を移転。海賊が1720年までベンス島を占領し略奪を行う。
1726年-王立アフリカ会社がウィリアム・スミスをベンス島へ派遣する。
1727年-フーダ・ジャロンのジハードが始まる。
1728年-ポルトガル人のロペスがベンス島の城砦を破壊、それに従い王立アフリカ会社はシエラレオネから撤退。
1750年-王立アフリカ会社がベンス島に残した城砦がグランド・サージェント・オズワルド会社の手に渡る。
1772年-フランスの商人がシエラレオネのブンス川河口にあるガンビア島に拠点を置く。奴隷身分のジェームス・サマーセットがイギリスで裁判を起こし、自由を勝ち取る。裁判官のマンスフィールド卿が奴隷制は非合法であると宣言。
1771年-民間生物研究者のヘンリー・スメスマンがシエラレオネのバナナ島を訪れる。
1779年-フランスがブンス島のイギリスの城砦を攻撃。
1785年-ロバナのテムネ人首長がフランスに商館として使用する土地をガンビア島に提供。フランスの部隊が一時駐屯したがのちに撤退。

参考URL:シエラレオネWiki
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by cluracan | 2012-02-18 17:00 | Discovery

【港・集落】 ジェノヴァ

古代ローマ時代に基礎が築かれ、十字軍の時代に栄えた都市。かつてヴェネツィアと激しい勢力争いを繰り広げたが、近年は下り坂である。しかし、大都市にふさわしく、高級な商品が扱われている。

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紀元前6世紀頃から人類が居住していたとされる。ローマ時代には以前より天然の良港という環境を生かし、海運業や軍港として発展した。
1100年頃より自治都市となり、その後ジェノヴァ共和国として発展する。ヴェネツィア、ピサ、アマルフィなどの他の海洋都市国家と競いながら、軍事力、経済力の影響力を増した。特に商船、軍艦による通商・金融の分野でヨーロッパ全土に権威をふるい、黒海貿易を独占するなどした。コルシカ島、カッファなどのクリミア半島南岸諸都市、コンスタンティノポリスの金角湾北部、イスラーム統治下のイベリア半島諸都市などに植民地あるいは商館を築くなど、地中海の覇権をヴェネツィアやオスマン帝国と争った。
16世紀には金融業で財を成した貴族が多く現れ、繁栄がピークに達した。アンドレア・ドーリア海軍提督の頃はスペイン王に協力し、多くの貴族が金融で富を築く。

参考URL:ジェノヴァWiki
       ジェノヴァ共和国Wiki
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by cluracan | 2012-02-18 16:17 | Discovery

【港・集落】 ジェッダ

アラビア半島の西岸に位置し、紅海に面した港町。イスラム教徒の聖地への巡礼の入口として古代より栄えてきた。

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ジッダの場所には2,500年前から漁村があった。
647年 第3代正統カリフのウスマーン・イブン=アッファーンがジッダの漁港を、マッカへのハッジに向かう巡礼たちのための港として整備したことによる。
以後何世紀にも渡り、ヒジャーズ地方の主要都市として、ハッジのために海を越えてきた巡礼たちを迎える港として、エジプトから紅海を経てインド洋に至る東西交易路の重要な港湾として栄えてきた。
ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝といったエジプトに拠点を置く政権がヒジャーズ地方およびジッダを支配た。
1525年 ポルトガル船による襲撃からジッダを守るため、エジプトを征服したオスマン帝国は城壁や塔の補強を行った。

参考URL:ジッダWiki
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by cluracan | 2012-02-18 16:11 | Discovery

【港・集落】 サンファン

カリブ海の東部にある街。比較的新しい街だが、ヨーロッパとの交易の窓口に当たる位置なので栄えている。サトウキビのほか、カリブ特有の農作物やサンゴが流通している。

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1508年 プエルト・リコに最初のスペイン人、フアン・ポンセ・デ・レオンが入植した。当時は、島ではなく入植地を「豊かな港」を意味する「プエルト・リコ」と呼んでいた。
1521年 サン・フアンは建設された。当初はクリストファー・コロンブスが聖ヨハネにちなんだSan Juanという名とスペイン人入植者があとからつけたPuerto Ricoを合わせて、サン・フアン・バウティスタ・デ・プエルト・リコ(San Juan Bautista de Puerto Rico プエルト・リコの洗礼者聖ヨハネ)という正式名称で呼ばれていた。

植民地時代、サン・フアン港はスペインとスペイン領アメリカを結ぶ中継地の役割を果たし、スペインの航路システム上において重要な港であった。しかし、それ故に列強による攻撃を受けることも多かった。
1595年と1598年 イギリスは2回にわたってサン・フアンを攻撃した。最初の攻撃を受けた際には防衛に成功したが、2度目には占領された。しかし指揮官の疲弊と病気により、イギリスの占領は長くは続かなかった。1625年、このサンフアンの町を攻撃したのはオランダであった。その時にはサン・フェリペ・デル・モーロ砦がオランダの軍勢の前に立ちはだかり、防衛に成功した。
1797年 イギリスが三たび攻撃を仕掛けてきたが、その時も防衛した。
18世紀後半から19世紀初頭にかけて、サン・フアンはスペインとの自由貿易を通じて成長を続けた。

参考URL:サンフアン (プエルトリコ)
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by cluracan | 2012-02-17 21:20 | Discovery


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