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【港・集落】 ダブリン

アイルランド最大の都市である。かつてヴァイキングが砦を築き、その後城が築かれた。ダブリンという名は「黒い水たまり」という意味である。産物は豚の加工品やウイスキーのほか、石炭や石墨を産出する。

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2世紀 アレクサンドリアの地理学者プトレマイオスの文献にエブラナとしるされている地が現在のダブリンとされる。
291年 住民であるケルト人はレンスター軍との戦いで勝利をおさめた。ダブリンのアイルランド語の名称ブラー・クリーは、この勝利のあとにつけられた名称と考えられている。
450年頃 パトリキウスによってキリスト教に改宗する。
9世紀半ば頃 リフィー川から攻め上がってきたノルマン人ヴァイキングが、ここにあったケルト人の町を破壊して城砦を築き、これをゲール語で「黒い水たまり」を意味する「ドゥヴ・リン」Dubh Linn と呼んだのが町の英名の由来とされている。現在のダブリン城の地下にはその当時の遺構がうかがえ、またこの城の裏の庭がそのかつて「黒い水たまり」と呼ばれていた地域である。
1171年 デーン人はイングランドのヘンリー2世にひきいられたアングロ・ノルマン人によって追放された。
1172年 ヘンリー2世はダブリンに宮廷をおき、ここをイングランドの都市ブリストルの属領とした。こうしてダブリンはイングランドのアイルランド支配の拠点となった。
1534年 反乱がおき、アイルランドの愛国者フィッツジェラルドが一時支配した。

参考URL:ダブリンWiki
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by cluracan | 2012-02-29 14:41 | Discovery

【港・集落】 ダバオ

ミンダナオ島の南岸に位置する街。ミンダナオ島は気候が安定しているため、農業に最適な土地である。さらにダバオは海側に山脈を持つため、嵐の影響を受けにくい。

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地方史家によれば、「ダバオ」の語源は、ミンダナオ南部周辺に住む先住民・バゴボ人の3つの支族が、ダバオ湾に注ぐダバオ川を指すのに使った言葉が混ざり合ったものという。
スペイン人は16世紀にセブやマニラなどフィリピンの大部分を征服したが、その影響がミンダナオ島の南側やダバオに及んだのは非常に遅く、19世紀になってからである。
1847年、ドン・ホセ・ウヤングレン(Don Jose Uyanguren)に率いられた探検隊が、現在のボルトン川沿いにあったマングローブの沼地にキリスト教徒の入植地を設立した。その頃ダバオ周辺はモロ人(ムスリムであるマレー系人)の首長(ダトゥ)、ダトゥ・バゴ(Datu Bago)が支配しており、彼の町はダバオ川の川岸にあった(当時は、バゴボ人はダバオ川をタグロック川 Tagloc River とも呼んでいた)。両者は戦闘になったが、ウヤングレンがダトゥ・バゴを破った。彼はスペインの故郷を記念して、この地域をヌエヴァ・ギポスコア(Nueva Guipozcoa)と改称し、最初の統治者になったが、この地の開発にかけた彼の努力は実を結ばず、密林は豊かな農地にはならなかった。

参考URL:ダバオWiki
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by cluracan | 2012-02-28 15:24 | Discovery

【港・集落】 ソファラ

東アフリカ南東部に位置する街。付近の交易の中心地である。大河に接しているため、農業が盛んである。また近郊の山地から産出する金と木材が流通している。

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ソファラとはかつてのフラ山に都したモノモタパ王国の主要港であった。
南部アフリカで最古とされる港であり、中世ソファラはその名をインド洋に注ぐソファラ川(ブジ川)からとった。
ヴァスコ・ダ・ガマの同僚トメー・ロペスはソファラを聖書のOphirとそのかつての統治者シバの女王の王朝と結びつける物語を残している。しかし、その意見はジョン・ミルトンが『失楽園』で言及してから放棄された。

紀元700年頃からソファラは栄えていた。
915年からアラブ人は沿岸に出入するようになり、ペルシアの商人が続いた。
1180年代にはキルワのスルターン支配下になり、スワヒリ文化圏に入った。後背地(主にジンバブエ)で採掘した金を海岸まで運ぶためのダウ船がソファラ川とサベ川を行き交った。
1489年 ポルトガルのユダヤ人ペロ・ダ・コヴィーリャは、金脈の発見を期待すると共にソファラを訪れた最初のヨーロッパ人として知られている。
1505年 ポルトガルによる町の支配はソファラ総督を自認したペロ・デ・アナイアによってなされ、ソファラはこの地域初のポルトガル植民地となった。アナイアはヨーロッパから輸入した石材で工場とサン・カエターノ要塞を建設した(石材は後にベイラ大聖堂の建設に再利用された)。町のかつての偉大さと富貴を示す遺跡はほとんど残っていない。

参考URL:ソファラWiki

モノモタパ王国(Monomotapa、1450年頃 - 1629年)は、ジンバブエを中心にアフリカ南部のザンベジ川流域を支配した王国。ムタパ、ムニュムタパとも。
早い時期からポルトガルとの関係を深め、黄金の国としてヨーロッパでその名が知られた。ただし、実際には金だけでなく象牙・ビーズと織物の遠隔地貿易を掌握することで栄えた。16世紀以降をマンボ王国と呼ぶこともある。1629年にポルトガルによって征服された。

参考URL:モノモタパ王国Wiki
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by cluracan | 2012-02-27 15:30 | Discovery

【港・集落】 ソコトラ

アラビア半島の沖合いに位置し、インド洋に浮かぶ島にある街。インド洋を航行する船乗りの寄港地となることもしばしばである。

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海上貿易の中継地点として、古代からアラブ人、インド人、ギリシャ人などの商船が寄港し栄えた歴史がある。
航路が衰退した現在は農業が中心であり、牧畜としてヤギが島内のほぼ全域で放牧されている。
竜血樹から取れる竜血(シナバル)は古代ローマ時代から中世欧州、あるいは中国で珍重された。

参考URL:ソコトラ島Wiki
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by cluracan | 2012-02-27 15:08 | Discovery

【港・集落】 セビリア

フェニキア人によって基礎が築かれ、古代ローマの時代から栄えていた。イスラム勢力に支配された間に大きく発展し、現在ではイスラムとヨーロッパの文化が混在した、独特の街並みを有する。

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古代ローマ時代には「ヒスパリス」と呼ばれた。
紀元前8世紀か9世紀 タルテソスにより支配され、のちにフェニキア人やカルタゴ人の植民都市となった。
紀元前216年 カルタゴ人は都市を破壊した。
紀元前206年 スキピオが近郊にイタリカを建設し、ヒスパリスの再建を始めた。
8世紀よりイスラム勢力の支配下に入り、「イスビリヤ(إشبيلية; ’ishbīlīya, Isbilya)」と呼ばれるようになった。タイファ諸国の分立期には、セビーリャ王国が栄えた。
1248年 レコンキスタの進展により、カスティーリャ王国のフェルナンド3世に征服され、以降はカスティーリャ王国の主要都市として発展した。
14世紀 イタリアのジェノヴァ商人がセビリアに拠点をおいて積極的な活動を行っており、中世より港湾都市として栄えた。当初はキリスト教徒とユダヤ教徒の共存がみられたが、14世紀半ばのペスト(黒死病)大流行の原因がユダヤ人に帰されるなど反ユダヤ主義の風潮が強まり、14世紀末にはポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こった。この動きは他の都市にまで波及し、多くのユダヤ人が迫害を受けた。
15世紀後半 カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国は、同世紀末にレコンキスタを完了させるとともに新大陸へ船を進めた。イベリア半島西岸と航路で結ばれているセビリアは、アメリカとの貿易の独占港となって繁栄を誇った。
16世紀から17世紀 セビリアはスペインでもっとも人口の多い都市となり、1649年には13万人を数えた。その年にペストが大流行し、セビリアは重要性を失い始めたが、バロック美術の中心地として重要性を保った。

参考URL:セビリアWiki
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by cluracan | 2012-02-27 14:48 | Discovery

【港・集落】 セウタ

紀元前にフェニキア人によって築かれたと伝えられる街。その後イスラムの支配下にあったが、15世紀初めにポルトガルが奪った。バジルなどが作られているほか、近海でサンゴが採れる。

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セウタの名は、七つの丘を意味するラテン語名Septem Fratresから派生したとされる。
セウタは海上交通また軍事上の要衝として、重視されてきた。
紀元前7世紀にはフェニキア人が定住地を築き、アビラと呼んだ。その後この地を占領したギリシャ人は、Hepta Adelphoiと呼んだ。
紀元前319年にはカルタゴが支配下においた。
紀元前201年、第二次ポエニ戦争でカルタゴが降伏すると、街はヌミディア王国へ割譲された。
紀元前47年にはマウレタニア領となった。
紀元後40年、カリギュラ帝がマウレタニアを併合し、ローマ属州マウレタニア・ティンギタナの都市になった。このときの名はセプティムという。
5世紀半ばにはローマ人の手を離れヴァンダル人の支配に帰したが、ユスティニアヌス1世時代に将軍ベリサリウスが占領し、東ローマ帝国領となった。
710年にイスラームを奉するウマイヤ朝が侵攻すると、当時の西ゴート王国の知事ユリアヌスは寝返り、イスラム軍に対してスペイン侵略を説いた。アラブ側史料によれば、その背景には西ゴート王ロデリックがユリアヌスの娘に乱暴を働いた恨みがあるという。セウタはまもなくイスラム軍のイベリア半島攻撃の拠点となった。ユリアヌスの死後、セウタの支配はイスラム側に帰した。
788年、モロッコのイドリース朝がセウタを占領した。
931年、後ウマイヤ朝のカリフ、アブデラーマン3世がイベリア半島にあったカリフ領を征服した。その後、グラナダ王国とフェズ王国の係争地となり、カスティーリャ王国とアラゴン王国がセウタ攻略に介入することがたびたびあった。
1415年にエンリケ航海王子がセウタを奪取し、セウタはポルトガル王国領となった。この攻撃の目的は、この地域一帯からイスラム勢力を駆逐し、キリスト教を振興することにあった。ポルトガル領だった名残は、セウタの紋章がポルトガル王国の国章に酷似している点に表れている。
1580年、ポルトガルのアヴィシュ朝が断絶した後、アブスブルゴ朝スペインのフェリペ2世がポルトガル王位を継承し、セウタはスペイン領となった。
1668年1月1日のリスボン条約でポルトガルの独立が再び認められた際、セウタは正式にポルトガルからスペインに割譲された。

参考URL:セウタWiki
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by cluracan | 2012-02-27 14:34 | Discovery

【港・集落】 セヴァストポリ

黒海に面し、クリミア半島に位置する港湾都市。

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古代この地にはボスポロス王国の都市ケルソネソス(ケルソン)があり、6世紀に東ローマ帝国の統治下になった後も東ローマ帝国のクリミア半島における統治の拠点、ハザールやキエフ大公国などとの交易拠点としてテマ(軍管区)が置かれ、12世紀のコムネノス王朝時代まで東ローマの領土であった。
12世紀後半に東ローマが衰退すると、その後はモンゴル人のキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)、その後裔のクリミア・ハン国などの支配下にあったが、1783年、ロシア帝国がクリミア半島を併合した際、一緒に組み込まれた。その後、重要な海軍基地、商業港として発展してきた。

参考URL:セヴァストポリWiki

ボスポロス王国Wiki

クリミア半島の歴史
最初の住人は、確かな痕跡によると、キンメリア人であったが、紀元前7世紀の間に、スキタイ人によって追い払われた。彼らは、山岳部に避難し、のちにタウリ人として知られるようになった。

ギリシア人の植民とボスポラス王国
同じ頃、ギリシャによるテオドシアやパンティカペイオン(ボスポラス)への植民も始まっていた。ヘラクレイアからのドーリア人がケルソネソスへ、ミレトスからイオニア人がテオドシアへというように植民者が定着した。紀元前438年、ボスポラス王国の王はアテナイと密接な関係を持ち、小麦などの産物を供給していた。
3人いる内の最後の王ペリサデス5世は、紀元前114年、スキタイ人の脅威に直面して、ポントス王国の王ミトリダテス6世の保護下に入った。その息子パルナケスは、父親とは反対にローマ帝国側に協力し、その報いとしてボスポラス王国とともにポンペイウスによって統治権が認められている。
紀元前15年、再びポントス王に従ったが、その後はローマ帝国の属国として位置付けられた。

民族大移動、フン・ハザール、ビザンティン、キプチャク、モンゴル時代
それから幾世紀にも渡り、クリミア半島は他民族の侵入と占領の場となっていた。250年のゴート族、376年のフン族、8世紀のハザール人、キエフ大公国、1050年のキプチャク・ハン国、1237年のモンゴル帝国である。
ただし、南部のケルソネソス(ケルソン)一帯はビザンティン帝国領として古代ローマ時代から11世紀頃まで維持され、帝国のテマ(軍管区)が置かれていた。

ジェノヴァ時代とタタール人
13世紀になり、ジェノヴァ人は、クリミア半島の沿岸にある競争相手ヴェネツィアの植民地を破壊したり、占領したりしており、自らは、ユーパトリア、チェンバロ、ソルダイア(スダク)、カッファ(テオドシア)などに植民地を建設し、活発な商業活動を行った。
一方、タタール人は、13世紀の初期に半島の北部と中央部に留まった。キプチャク・ハン国がティムール帝国によって滅亡させられた後、チンギス・ハーンの子孫であり、ガージー・ギライをハーンとするクリミア・ハン国が成立した。彼は最初クリミア一帯を統治していたが、15世紀初頭にはバフチサライも領土に含めた。しかし、立場はオスマン帝国の属国の王として、1478年から帝国の滅亡する1777年まで統治した。

参考URL:クリミア半島Wiki
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by cluracan | 2012-02-27 14:18 | Discovery

【港・集落】 セイロン

インド南端にある島の街。島は高地が多く、茶の栽培が盛んだ。また、宝石の鉱脈が非常に豊富で、さまざまな宝石が産出される。

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紀元前5世紀:シンハラ人の先祖にあたる人々が北インドから移住して王国をつくったとされる。王都はアヌラダープラにおかれた。
紀元前3世紀:アショーカ王の王子マヒンダが仏教を伝えたとされ、これ以後上座部仏教(小乗仏教)を主体として仏教が興隆し、その中心地となって、シンハラ人の多くは現在までその信仰を守ってきた。
紀元前2世紀以来:南インドからタミル人を主体とする断続的な移住者があり、現在のスリランカ・タミル人の原型を形成したと考えられる。
5世紀:アヌラーダプラで父を殺した王子はシーギリアロックの岩山の頂に宮殿を築いて遷都してカッサパ1世となったが、短期間で元に戻る。
11世紀:1017年、南インドのチョーラ朝の侵入により王都を放棄した。
11世紀:王国はアヌラーダプラの南東90キロのポロンナルワに移動し、1070年にチョーラ朝の勢力は撃退され、繁栄の時代を迎えた。ポロンナルワが王都となる(1070-1255、1287-1293)。
13世紀:南インドでの動乱に伴い、チョーラ朝のタミル人の侵入が激しくなった。王都は北部から中部・南部に移動し、ダンバデニヤやヤーパフワを経て、コーッテでやや安定する。マルコ・ポーロが来島し、『東方見聞録』に記録を残す。
14世紀:イブン・バットゥータが来島し、『三大陸周遊記』に記録を残す。
15世紀:鄭和が1410年に来島し、形式上では明の朝貢国となった。中央部にウダラタ王国(1474-1815)が成立し、キャンディを王都とした。低地にはコーッテ王国(1371-1597)、北部にはジャフナ王国(14世紀ー1620)があった。
16世紀:1505年にポルトガル人がコロンボに商館を建設し植民地化(1505-1658)。植民地都市ゴールも建設される。
17世紀:ポルトガルに代わりオランダが植民地化(1658-1796)。

参考URL:スリランカWiki
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by cluracan | 2012-02-27 12:16 | Discovery

【港・集落】 セイラ

アラビア半島の対岸、アフリカ東北部側にある港町。アデン湾から紅海へ向かう途中に位置する。

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ゼイラ(Saylac, Zayla)のことと思われる。

1世紀に書かれたエリュトゥラー海案内記に登場する都市アヴァリタエ(Avalitae)をゼイラと同定する学者がいる(アッサブと考える学者もいる)。891年にイスラムの旅行家ヤアクービーが書いた「国の本(Kitab al-Balden)」の都市の一つがゼイラだと考えている。また、イスラムの地理学者マスウーディが935年頃に書いた「黄金と宝石の土地(Murugal al-Dahab wa-Ma'adin al-Guwahir)」にも登場する。また、988年にイブン・ハウカルが書いた「世界の構成(Kitab Surat al-'Ard)」の中で、エチオピアからアラビア半島のヒジャーズやイエメンに渡った時の港として登場する。
貿易港としての重要性は12世紀の地理学者イドリースィーや13世紀の地理学者イブン・サイード・マグリビーが言及しており、奴隷貿易でかなり栄えたと記されている。この他、13世紀の旅行家マルコ・ポーロも、アラビア半島の都市アデンのスルターンが旅行中のエチオピアの司教をイスラム教に改宗させようと無理やり割礼を行ったのでエチオピア皇帝が大いに起こった、という話の中でゼイラについても言及している。また、13世紀前半にモロッコの旅行家イブン・バットゥータもゼイラを訪ねている。
15世紀のソマリアは都市国家に近い形であり、ゼイラもそのひとつだった。ゼイラはイスラーム教徒のワラシュマ家が支配していた。ワラシュマ家はソマリアの他の都市も支配していたので、外国人がソマリ族の居住地域全般をゼイラと呼ぶこともあった。1403年(あるいは1415年)にはエチオピアの攻撃を受けた当時の王サアド・アドディンが首都イファトからゼイラまで逃げたが結局殺されたという話が伝わっている。死後、サアド・アドディンは英雄視され、その後の数世紀にわたって崇められた。
1493年、ポルトガルのペロ・デ・コビリヤンは、ポルトガル王の命によりアラビア半島からゼイラを通ってエチオピアを訪ねている。1517年と1528年にはポルトガルから攻撃され被害を受けたが、同じ16世紀にゼイラを訪れた旅行者はこの地が重要な商業都市だったと報告している。「季節を通して数千人が働き、異国人の多い町」とも言われるようになった。
16世紀まで、ゼイラは北西にあるタジュラとともに、ハラールやシェワからの荷物を輸出するための重要な港であった。しかし1630年にアラビア半島のモカがこの町を支配するようになると、ゼイラを通しての荷物に税をかけるようになったため、以前より振るわなくなった。また、この頃に海賊がゼイラの町を襲うようになり、ゼイラの知事は町の周りに土壁を設けてこれを防いだ。これらの問題からシェワは専らゼイラの代わりにタジュラを使うようになり、ゼイラの港としての価値はさらに下がった。1698年にオランダ東インド会社が水の少ない町との報告をしている。

参考URL:ゼイラWiki
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by cluracan | 2012-02-26 17:44 | Discovery

【港・集落】 スラバヤ

ジャワ島北東岸に位置する街。マジャパヒト王国の支配下にあり、ヒンドゥー文化の黄金期を築いた。

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天然の良港タンジュン・ペラック港を中心に、オランダ植民地時代から貿易の中心として栄えた。
砂糖、タバコ、コーヒーなどを輸出する。 華人やアラブ系住民も多い。

15世紀から16世紀にかけてイスラム系のスルタン国が存在し、ジャワ島東部の政治的、軍事的拠点であった。
1625年に当時強大であったマタラム王国の支配下となった。これによりマタラム国は、バンテン王国の支配地とオランダ領バタヴィアの除いたジャワ島のほとんどすべてを支配下に治めた。

参考URL:スラバヤWiki

マジャパヒト王国(Kerajaan Majapahit)は13世紀末から16世紀始め頃までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシア諸島全域とマレー半島まで勢力下に置いたとの説がある一方、実際にはジャワ島中東部を支配したにすぎないとする説もある。

参考URL:マジャパヒト王国Wiki

マタラム王国は、ジャワ島中部のジョグジャカルタ地方に栄えた王国。「マタラム」とは、ジョグジャカルタ地方の古地名である。
ジャワの歴史上、マタラム王国と称される国は、8-9世紀に繁栄した古マタラム王国と16世紀末に興った新マタラム王国の2つがある。これらはそれぞれの王権の宗教的基盤から、ヒンドゥー・マタラム、イスラム・マタラムとも区別される。

古マタラム王国 (752–1045)
マジャパヒト王国 (1293–1500)
マタラム王国 (1500年代-1700年代)

参考URL:マタラム王国Wiki
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by cluracan | 2012-02-25 22:29 | Discovery


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