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【港・集落】 ラグーザ

イタリア半島の東対岸にある街。古代ローマ人が街を作って以来、支配勢力が変わりながらも交易港として栄えてきた。各種農業が盛んで、多くの農作物やその加工品が流通している。

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ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、中世のラグーサ共和国はアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどと共に5つの海洋共和国に数えられ、アドリア海東側では唯一のライバルである都市国家はヴェネチア共和国だけであった。巧みな外交術と豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけてはとくに特筆するほど発展している。

町の起源は古くローマ帝国時代、あるいはそれ以前に溯るとされている。町のイタリア語名ラグーサは、当時のラテン語名ラグシウムに由来する。

ラグーサ共和国
東ゴート王国崩壊後、町はビザンティン帝国の下保護国の都市国家として沿岸部のセルビア人などと交流があった。十字軍の後、ラグーサはヴェネチア主権(1205年~1358年)の下に入り、ダルマチアの都市として権利を得ている。
1358年、ザダル平和条約が結ばれ隷属関係にあったハンガリー王国から独立を果たす。
14世紀から1808年までラグーサは自由国として存続した。
15世紀から16世紀にかけて最盛期を向かえヴェネツィア共和国や他のイタリアの海洋都市国家がライバルであった。
1272年にラグーサ共和国は自治権を獲得し、ローマ法や地元の慣習を成文化している。法令には都市計画や公衆衛生上の検疫に関する規則も含まれていた。
ラグーサ共和国の時代、この町ではイタリア系とスラヴ系の住民が一貫して共存し、共に繁栄を支えていた。もともとイタリア系住民が住んでいた島の部分とスラヴ系住民の住む対岸の集落の間にある海峡を埋め立てることによって、両者の一体化はさらに進んだ。共和国では早い段階から現代的な法体系が整備されており、1301年には医療制度が確立されおり1317年に現在でも営業している最初の薬局が開業している。
1347年に養老院が1377年には隔離病棟が開かれた。
1418年には奴隷貿易は廃止され、1432年に孤児院が開かれている。
1436年に約20kmの水道施設が完成している。そもそもこの町は後背地であるボスニアやセルビアで産出される鉱石の積出港として栄えていたが、15世紀にオスマン帝国がバルカン半島の内部へと進出してくるとその宗主権を認め、ヴェネツィアがオスマン帝国と度々戦争状態に入りその都度停滞したのとは裏腹に、かつてヴェネツィアが独占的に果たしていた東西交易の中での役割をより確かなものとしていった。
貴族階級を含め、17世紀まで共和国の住人のほとんどはラテン由来の人々であったが周辺部からクロアチア人が移住するようになった。 同時期、スラヴ系とラテン系の住民が一緒に住むようになり、スラヴの要素とルネサンス期のイタリア文化が影響しあいラグーサはクロアチア文学のゆりかごとなった。
共和国の経済は一部は土地の開発によってもたらされたが、大部分は海洋交易によるものであった。巧みな外交術は交易を助け、ラグーサの商品は自由に海を行き交い都市には巨大な商船団が存在した。各地で居住地も発見されている。多くのスペインやポルトガルからのマラーノやユダヤ人をラグーサはひき付けた。1544年、ほとんどをポルトガルの難民で占めた船が着岸したとバルタサール・デ・ファリア(Balthasar de Faria)がジョアン王に報告している。
隆盛を極めたラグーサ共和国だが、1667年に発生した壊滅的な地震の後、アドリア海交易の不振と相まって徐々に後退を始める。地震では5,000人を超える市民が死亡し、公共の建物のほとんどは破壊された。
1699年、共和国はクロアチア本土にある2つの小区画の領地をオスマン帝国に売り、前へ進めるベネツィアの軍とオスマン軍との戦いに巻き込まれるのを避けた。今日、これらの土地はボスニア・ヘルツェゴビナに属しボスニア・ヘルツェゴビナでは唯一、アドリア海に接する町であるネウムである。
1806年、周辺部をナポレオンの軍隊に包囲され、ロシア・モンテネグロ艦隊の3,000発の砲撃によってラグーサ共和国は1ヶ月の包囲に降伏した。ナポレオンの最初の要求は自らの軍隊の自由な通行で、領土の占領や圧力ではなくフランスはラグーサの友人であるとした。しかしながらその後、フランスの軍は港を封鎖し共和国政府を強制し市内へ軍を進めた。
1808年、オーギュスト・マルモンはラグーサ共和国を廃しナポレオンの初の国家となるイタリア王国に統合され、フランス支配下のイリュリア州となる。

参考URL:ドゥブロヴニクWiki
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by cluracan | 2012-04-21 21:59 | Discovery

【港・集落】 ヤッファ

紀元前から存在する、歴史のある街。さまざまな文明の交流点で、歴史の舞台として興味深い土地である。乾燥気味の土地に適した作物が栽培されるほか、この地方の特色である高い製鉄技術による産物が流通している。

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4000年以上前の古代都市からの歴史を有するという、イスラエルに所在する地中海に面した港町。現在イスラエルのテルアビブに併合された市街地はテルアビブ中心部からみて南部に位置する。
ヤッファの地名は、アラビア語:يَافَا(ヤーファまたはヤーファー)とヘブライ語:Yafo(ヤッフォ)、そのラテン語表記と歴史的変遷によりJapho(ヤーフォ)、Joppa(ヨッパ)、Yapu(ヤプ)などと様々な表記(読み方)が存在する。テルアビブの公式行政単位名には「Tel-Aviv/Yafo」とヘブライ語の「Yafo」が含まれている。
新約聖書に記述される、イエスの使徒ペテロが滞在したとされる「皮なめし職人シモンの家」がある。

参考URL:ヤッファWiki

Jaffa Wiki
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by cluracan | 2012-04-20 21:22 | Discovery

【港・集落】 ヤーディン

メコン川流域に建設された街。長くチェンラ王国の支配を受けてきた。川の上流にはチェンラ王国の古都があるといわれている。

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ホーチミンのこと。

プレイノコールに北方からのベトナム人移民が定住するようになると、サイゴンという名前で知られるようになった。ベトナム語のサイゴンという名前の由来には様々な議論があるが、その語源は次のように分析されている。 フランス人によって植民地化されるまでは、サイゴンのベトナム語での名前はザーディン(嘉定)だった。1862年、フランス人はこの公式な名前を捨て、Sài Gònという呼称が一般的になっていたので、「サイゴン」と呼ぶことにした。

ホーチミン市はプレイノコールとして知られる小さな漁村として出発した。今では市街地が広がっている一帯は、もともとは沼地であり、ベトナム人が入ってくる何世紀も前からクメール人が住んでいた。
1623年、カンボジアのチェイ・チェッタ2世王(在位1618年-1628年)は、ベトナムの Trinh-Nguyen 内戦から逃げ出したベトナム人難民にプレイノコール一帯で定住してその風習に沿った住居を建築することを許可した。ベトナム人定住者がみるみるうちに増えてゆくのを、タイランドとの戦争により弱体化したカンボジア王国は妨げることができず、この一帯はゆっくりとベトナム化していった。やがて、プレイノコールはサイゴンとして知られるようになった。
1698年、ベトナム人貴族である阮有鏡(グエン・フー・カイン)が、この一帯にベトナム人による統治機構を構築し、この一帯に干渉するほどの勢力を失ったカンボジアからこれを引き離すため、フエの阮氏の頭領によって送り込まれた。彼は大規模な定住によりサイゴンの拡大をもたらした人物としてしばしば賞賛されている。嘉定城と呼ばれた巨大なヴォーバン式星形要塞が築城されたが、これは後に Chi Hoa の戦いにおいてフランス人が破壊した。
1859年にフランスによって占領され、
1862年のサイゴン条約で阮朝はフランスによるコーチシナ東部の支配を認めた。その際にサイゴンは開港し、
1887年に成立したフランス領インドシナのもとで急速に発展した。ベトナムがフランスにより植民地として占領されている間、この街はフランスの影響を受けた。そのことが、この街に数多くの古典的西洋風の建築に表れている。そのため、サイゴンは「極東の真珠」 (Hòn ngọc Viễn Đông) とか、「東洋のパリ」 (Paris Phương Đông) と呼ばれることも多い。

参考URL:ホーチミン市Wiki
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by cluracan | 2012-04-19 21:58 | Discovery

【港・集落】 モンペリエ

マルセイユ近郊の小都市。古くから大学があり、特に医学の研究が盛んである。ノストラダムスもモンペリエ大学で医学を修めた。

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985年にMelgueil (Mauguio) の伯爵の記録に初めてMontpellierの表記が表れる。近隣のニーム、ナルボンヌ、ベジエなどがローマ時代から都市として成立していたのに対し、モンペリエの領地としての登場は遅い。中世初期には領主Guilhemとマグローヌ (Maguelone) の司教のもとで人口を増やした。また、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の宿場町としても栄えた。
1220年に成立した医学校は、1289年に法学部とともにモンペリエ大学として教皇ニコラウス4世の承認を受ける。医学部は現在もカテドラル (Cathédrale Saint-Pierre de Montpellier) に隣接した校舎を使用している。
婚姻などによりアラゴン王、マヨルカ王などの支配下に入った後、1349年にフランス王国に売却、併合された。このころはかなり繁栄していたが、疫病により一旦衰退の時期を迎える。15世紀に入ると天才商人ジャック・クールが、隣接するラット (Lattes) の港を活用したため、貿易拠点として隆盛を極める。
16世紀にはユグノー戦争の戦乱の中、プロテスタントが多数を占め、カトリックの教会はカテドラル以外のほとんどが破壊された。その後アンリ4世のナントの勅令によりつかの間の平和を享受したものの、ルイ13世の治世以降は、プロテスタントは衰え、カトリック勢力が支配的となった。フランス革命までの平穏な時期に、水道橋、凱旋門、コメディー広場などが建設されていった。

参考URL:モンペリエWiki
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by cluracan | 2012-04-18 22:58 | Discovery

【港・集落】 モンバサ

アフリカ東岸の街。アフリカ・アラビア・インドの中間地点に位置するため、港湾都市として古くから栄えた。耕作が広く行われ、コーヒーなどの農産物が多く流通している。

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ムスリム商人の活動が盛んになるにつれ、インド洋交易の拠点の一つとして栄えた。
1331年には、イブン・バットゥータもこの街を訪れている。
1498年のヴァスコダガマ以来、ポルトガルが進出し、現地勢力とポルトガルの抗争が続いた。
18世紀半ばには、アラビア半島南部で勢力を伸ばしていたオマーンが、ポルトガル勢力をモンバサから駆逐した。
18世紀後半、オマーン本土で内乱が起きると、土着化したオマーン人豪族マズルイ家がモンバサを支配下に収め独立したが、1828年、オマーンのスルタンサイイド・サイードの攻撃に屈し、再びオマーン領となった。
19世紀後半になると、イギリスの支配下におかれ、イギリス領東アフリカの重要な外港となった。

参考URL:モンバサWiki
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by cluracan | 2012-04-17 17:56 | Discovery

【港・集落】 モザンビーク

アフリカ南東岸に位置する街。天然の良港でアフリカ東部の交易拠点として栄えてきた。耕作が盛んでさまざまな産物が流通するほか鉱山資源が非常に豊富である。

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1498年にヴァスコ・ダ・ガマが到達するよりもずっと前から、ここはアラブ人の港であり、造船所でもあった。1507年にはポルトガルが港と海軍拠点を建造し、
1522年にはノサ・セニョラ・デ・バルアルテ礼拝堂が建てられた。この礼拝堂は、南半球における現存最古のヨーロッパ建築と見なされている。
16世紀にサン・セバスティアン要塞が建造され、次いで建てられたポルトガルの植民都市モザンビークは、ポルトガル領東アフリカの首都となった。同時に、この島はキリスト教の重要な伝道拠点にもなった。
1586年末に天正遣欧少年使節一行が日本への帰途天候待ちのため滞在した。
1607年と1608年にはオランダの侵攻にも耐え、インド航路におけるポルトガルの重要な拠点としての地位を保持し続け、黒人奴隷、香辛料、金などの交易が行われていた。
スエズ運河の開通によって、島は衰退に向かった。1898年には首都はモザンビーク本土のロウレンソ・マルケス(現マプト)に移転された。

参考URL:モザンビーク島Wiki
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by cluracan | 2012-04-16 10:34 | Discovery

【港・集落】 モガディシオ

アフリカ北東岸の街。古代から人が住むが、気候が厳しく耕作には向かない。畜産は盛んで、主な交易品は畜産物である。それ以外には鉱物資源も産出している。

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モガディシュ(Mogadishu)は英語、ドイツ語などで用いられる名称で、イタリア語やスペイン語ではモガディシオ(Mogadiscio)と呼ばれる。公用語であるソマリ語ではムクディショ(Muqdisho)、アラビア語ではマカディーシュー(アラビア語: مقديشو‎)と表記される。
名前の由来は明らかではない。一説によると、「シャーの玉座」を意味するアラビア語のmaqad shahのソマリ語表現と言われているが、他にはスワヒリ語で「最北の都市」を意味するmwyu maのソマリ語表現という説もある。

エチオピア中央部から流れるシェベル川が街の近くまで来ており、サトウキビ、綿花、バナナの栽培に重要な水源である。

モガディシュの地には、900年頃アラブ人や黒人の植民者が定住し、
12世紀初頭にはアフリカ東海岸における一大商業拠点にまで発展し、
その交易の様子は14世紀に訪れたイブン・バットゥータが記している。
15世紀には鄭和の船団の訪問を受けている(「木骨都束」と記されている)。
16世紀にはポルトガルの支配下に入った。
1871年にザンジバル島のスルタンにより征服され、
1892年にイタリアの租借地(ある国が条約で一定期間、他国に貸し与えた土地)となった。

参考URL:モガディシュWiki
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by cluracan | 2012-04-15 15:38 | Discovery

【港・集落】 メリダ

熱帯雨林に覆われたユカタン半島の北西端に位置する街。その昔マヤ文明が栄えていたという。

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1542年、スペイン人入植者フランシスコ・デ・モンテーホによって都市が開かれた。
中央広場(ソカロ)の南側には、今でもモンテーホの宮殿が残されており、現在は銀行として使われている。市の中心部はコロニアル様式の町並みが広がっている。中央広場北側にあるユカタン州庁舎の2階には先住民の生活、寓話、ユカタンの歴史的出来事をあしらった絵画が展示され、ユカタンの歴史を垣間見ることができるかもしれない。
メリダの中心地である歴史地区(Centro Histórico)は、主にスペイン人たちの居住区であった。そしてその周りにメスティソや先住民が住んでいた。数字的には圧倒的少数派であったスペイン人達は、多数派の先住民に対して執拗な警戒心を持ち、先住民の動向に対して神経質であったと言われている。
基本的にメリダ市内のブロックは縦の通りが偶数、横の通りが奇数になっており比較的わかりやすい碁盤の目のような造りになっている。

参考URL:メリダWiki
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by cluracan | 2012-04-14 09:02 | Discovery

【港・集落】 マルセイユ

古代ギリシャ時代にマッシリアという名で築かれた街。ヴェネツィア商人も出入りし、交易が盛んである。周辺で農業が盛んなため、種々の農作物が豊富に取引される。

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紀元前600年頃 マルセイユの歴史は古く、小アジアから来た古代ギリシアの一民族であるポカイア人が紀元前600年頃に築いた植民市マッサリア(マッシリア)にその端を発する。このためフランスにおいてマルセイユは "cité phocéenne" (ポカイア人の街)とも綽名されている。
都市は交易で栄え、紀元前3世紀から紀元前2世紀にかけてのポエニ戦争ではローマ側につき、カルタゴと敵対した。
カエサルの『ガリア戦記』にもマッシリアへの言及が見られる。
紀元前49年からのカエサルとグナエウス・ポンペイウスの間で起った内戦ではポンペイウスを支持したが敗北し、自治都市としての権限を大きく縮小された(マッシリア包囲戦)。当時のマッシリアはガッリア・トランサルピーナ属州におけるギリシア系住民の拠点であったが、徐々にローマ化が進んでいった。
3世紀ごろ、キリスト教がもたらされた。
10世紀にプロヴァンス伯の支配するところとなり、
1481年にはフランス王国に併合された。中世にはあまり振るわなかったが、
港での交易は18世紀に盛んになった。
1720年には大規模なペストの流行 (en:Great Plague of Marseille) で十万人程度の死者が発生したが、18世紀後半には復興した。

参考URL:マルセイユWiki
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by cluracan | 2012-04-14 08:58 | Discovery

【港・集落】 マリンディ

アフリカ東岸に位置する港湾都市。7世紀以降、ムスリム商人が来航し、海上交易で繁栄した。

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ムスリム商人によるインド洋貿易が盛んになると、モンバサ、キルワなどと並ぶアフリカ東岸の港市の一つとして栄えた。
1418年頃、南海遠征を行った明朝鄭和の船団の一部が来訪した。麻林(=マリンディ)から「麒麟」を運び永楽帝に献上したことが記録に遺っている。
15世紀末、この都市にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが訪れ、ムスリムの水先案内人アフマド=イブン=マージドを雇ってインドのカリカットへ到達した。
ムスリム商人の活動が衰えたこと、ポルトガル商人がアフリカ東岸の活動拠点をモンバサにおいたこと、内乱などによってマリンディの繁栄は失われた。

参考URL:マリンディWiki
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by cluracan | 2012-04-13 21:49 | Discovery


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