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【港・集落】 グァテマラ

太平洋に面した中米の港街のひとつで、コーヒーの産地として知られる。
沿岸の熱帯低地と、内陸の高原地帯では気温の差が激しい。

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先コロンブス期
紀元前1800年頃に太平洋岸にバラ相の土器文化が興り、テコマテと呼ばれる祭祀に用いられたと考えられる無頸壺の器形で知られる。バラ相にメソアメリカ最古に属する土偶も作られた。先古典期中期初頭の紀元前900年頃に、パシオン川流域のセイバルとアルタル・デ・サクリフィシオスに集落が形成された。やがて、先古典期中期後葉になるとナクベに高さ18mに達する大規模な建物が造られた。一方、南部の高地にはカミナルフューにラス・チャルカスの精巧な土偶を伴う文化が興った。
先古典期後期には、紀元前500年以降には、ペテン低地にワシャクトゥンやエル・ミラドールなどのマヤの大規模な都市が出現する。南部の高地には、イサパ文化の影響を受けた石碑を伴うアバフ=タカリク、エル=バウル、カミナルフューなどの祭祀センターがきずかれた。古典期には、378年にティカルにメキシコのテオティワカンゆかりの強力な王朝が建てられ、メキシコ、カンペチェ州のカラクムルと「優越王」として覇を争うようになる。古典期になるとカミナルフューもテオティワカンに征服される。エル=バウルを含めた周辺区域にはナワ語系のピピル族によると言われるコツマルワパ様式の祭祀センターが築かれた。後古典期にはいると、11世紀頃から北方のチチメカ人が侵入してきた。その影響を受けてキチェー王国やカクチケル王国にチチメカ様式の影響を受けた都市が築かれた。
10世紀初頭までにペテン低地の祭祀センターは放棄されたが、グアテマラ高地のマヤ系諸王国はスペイン人に征服されるまで存続した。

スペイン植民地時代
1492年にクリストーバル・コロンがアメリカ大陸を「発見」すると、現在のグアテマラに相当する地域にもヨーロッパ人の征服者が訪れた。1523年に現れたスペイン人の征服者、ペドロ・デ・アルバラードは、1524年にはこの地域を征服した。アルバラードはカクチケル族の協力を得て、グアテマラの地を支配していたキチェー族の都クマルカフ(ウタトラン)を1524年に攻略し、カクチケル族の都イシムチェに本拠地を構えた。だが、カクチケル族との同盟関係はごく短い期間で決裂し、カクチケル族は都を放棄して征服に抵抗するようになった。1526年に脱走兵の放火によってイシムチェは破壊され、アルバラードは現在のシウダー・ビエハに新しい首都を建設。さらに、イシムチェの近くにあるテクパンに都を移したが、1541年7月にアルバラードは死に、同1541年9月にアグア火山の噴火によってテクパンは壊滅してしまう。その後、現在のアンティグア・グアテマラが首都となった。
1544年、スペインはグアテマラ総監領をおき、自治権を与えた。グアテマラ総監領の統治範囲には諸説があり、現在の中米五国ホンジュラス・エル・サルバドル、ニカラグア、コスタリカなどを含んでいた。スペイン人征服者の政策により、先コロンビス・マヤ文化の古文書(Pre-Columbian Maya codex)はほとんどがこの植民地時代に焼却されたが、辛うじてポポル・ヴフ(Popol Vuh)と呼ばれるキチェー族の創世神話が現在に伝わっている。
1717年に起きたマグニチュード7.4の地震はアンティグア・グアテマラに甚大な被害をもたらし、さらに1773年でも地震で大きな被害が出たため、1776年にスペイン国王の命により首都はグアテマラシティへと移ることになった。1786年にはスペインからイギリスにカリブ海側の領土が割譲された。この地域は英領ホンジュラスとして統治され、現在はベリーズになっている。

参考URL:グアテマラ共和国Wiki
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by cluracan | 2012-05-25 15:17 | Discovery

【港・集落】 パリ

セーヌ川の中州であるシテ島から発展したとされる街。シテ島を囲むように城壁が築かれそれが拡大されて現在のパリとなった。気候は比較的温暖である。

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語源
語源はパリシイ(パリースィイ) Parisii(複数形。単数形は Parisius 「田舎者、乱暴者」)で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称である。欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではΠαρίσι(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリジ)と発音される。フィンランド語で Pariisi(パリースィ)と発音されるのはここからだという説がある。ルーテティア(・パリースィオールム) Lutetia (Parisiorum) 「パリシイ族の、水の中の居住地=シテ島のこと」とも呼ばれていた。

古代
セーヌ川の中洲シテ島は古くからセーヌ川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。
紀元前1世紀、ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場の遺跡が残っている。しかしローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。

フランス王国首都
5世紀末にフランク族の王クロヴィス1世はパリを征服し、
508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。
885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このときフランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代ってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。
西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。
王権の強化にしたがって首都も発達し、フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁が築かれた。このころのパリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学はヨーロッパ最古の大学のひとつであり、特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル (Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。
12世紀にはパリ水運商人組合が結成された。後にその商人頭は事実上の市長として市政を司るようになり、エティエンヌ・マルセルのように王に匹敵する権力を持つものも現れた。市の規模が大きくなるにつれ、城壁は何度か壊され市域が拡大していった。
百年戦争後半にはパリはオルレアン派とブルゴーニュ派の対立で混乱に陥った後、イングランドと同盟したブルゴーニュ公の支配下に入った。
しかし1436年にはフランス軍に奪還され、翌1437年、シャルル7世は改めてパリをフランスの首都と定めた。しかしこの後もフランス王はパリには住まず、ロワール渓谷の城を好むようになった。ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こった。
アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。これ以降パリ市内ではテュイルリー宮殿、リュクサンブール宮殿、廃兵院などの大規模建築が相次いで作られた。しかしルイ14世はパリ郊外のヴェルサイユに造営した離宮に政治の本拠を移し、ルイ16世の治世の末期までヴェルサイユが政治の中心となった。
1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。

参考URL:パリ wiki
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by cluracan | 2012-05-21 15:45 | Discovery

【港・集落】 オクスフォード

ロンドンの北西に位置する学問都市。
羊毛の集散地として栄えていたが、8世紀に女子修道院が創立された。12世紀には学者たちが集まり出し、学問の都として発展した。

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オックスフォードはサクソン時代に人が居住しはじめ、最初は古英語でオクサンフォルダ(Oxanforda)として知られた。oxanforda とは雄牛(oxen)が渡ることのできる浅瀬(ford)の意味である(イギリスに多くある地名の「~フォード」は、浅瀬・渡場の ford に起源がある。ドイツ語地名の「~フルト」(furt)に対応する)。8世紀に聖フリデスウィデ(Frideswide)の女子修道院の創設と共に都市としての歴史が始まる。最初の文書記録としては『アングロサクソン年代記』の912年の記述で言及されている。10世紀になるとオックスフォードは、マーシア王国とウェセックス王国の間の軍事上の拠点として重要な意味を持つようになり、数度にわたりデーン人の侵攻を受けた。
オックスフォード大学は、12世紀の記録で初めて言及されている。オックスフォードの最古のカレッジ(学寮)は、ユニバーシティ・カレッジ、ベイリョール・カレッジ(1263年)、そしてマートン・カレッジ(1264年)である。
オックスフォードのクライスト・チャーチ大聖堂(Christ Church Cathedral)は、一つの教会が大学の聖堂と司教座聖堂を兼ねているという、世界でも例を見ないユニークな聖堂である。もともと聖フリデスウィデの修道院聖堂であったが、建物が拡張され、カーディナルズ・カレッジの一部に組み込まれた。その後、1546年にクライスト・チャーチ大聖堂として再び独立した建造物となった。以降、現代に至るまでオックスフォード教区の司教座聖堂となっている。
「タウン(町)とガウン(学生)」の間の関係はしばしば悪化することがあった。たとえば1355年の「聖スコラスティカの日の暴動」といわれる事件では、数人の学生が市民の手で殺害されている。
清教徒革命(1642年 - 1649年)の間、オックスフォードはロンドンを追放されたチャールズ1世の宮廷を迎えていた。オックスフォードの町には議会派への強い支持が存在したが、王の宮廷は維持された。町は1646年にフェアファックス将軍指揮下の議会派勢力に屈した。
1790年には、オックスフォード運河が市をコヴェントリーに結び、テムズ川へと連結させた。1840年代には「大西部鉄道」(Great Western Railway)と「ロンドン及び北西部鉄道」(London and North Western Railway)が、オックスフォードとロンドンを繋いだ。

参考URL:オックスフォード Wiki
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by cluracan | 2012-05-21 15:37 | Discovery

【港・集落】 フィレンツェ

製造業と交易、金融業により発展した街。金融業で有名になったメディチ家をはじめ、多くの商人と職人が集いその結びつきを強くしている。古代ローマ時代、フロレンティアと名づけられたことから現在の街名になったといわれている。

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フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設されたが、直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者(退役軍人)への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配したが、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、12世紀には自治都市となった。フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。
1300年頃、二つの党派、教皇派・教皇党ネーリ(黒党)と皇帝党のビアンキ(白党)による内乱がはじまった。内乱は終止符が打たれ、敗れたビアンキに所属し、医師組合からプリオリに推されていたダンテ・アリギエーリは1302年、フィレンツェから追放される[4]。この間の事情については、当時のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニが年代記を残している。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。
その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。 メディチ家は金融業などで有力になり、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。14~15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。
1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。彼の死後は、その子ピエロにその権力を継承し、孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。
ロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフローリン金貨は、全欧州の貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。
ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、1494年秋にナポリ王国の回復と称してイタリアを侵略したフランスのシャルル8世に対して20万グルテンの賠償と、かつて征服したピサをフランスに渡すという屈辱的な譲歩をした[5]。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含む一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長ジロラモ・サヴォナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサヴォナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持を失っていった。1498年、サヴォナローラはとうとう民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、1527年ふたたび追放されたが、1531年には復帰し、1569年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となったが、政治的・経済的に次第に衰退した。
1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアのハプスブルク家に継承された。フェルディナンド3世は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあったが、1860年にイタリア王国に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のおさめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。

参考URL:フィレンツェ wiki
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by cluracan | 2012-05-20 22:09 | Discovery

【港・集落】 ローマ

紀元前から存在するイタリア最大の都。
王制、共和制、帝制と長い歴史の中で数多の変遷を遂げ、街中にはさまざまな遺跡が存在する。
コロッセウムもその遺跡の一つである。

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起源
伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられた。ロムルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロムルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる。
考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された。
他にもエスクイリーノの丘やクイリナーレの丘にも集落があったものと思われる。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた。

発展
紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノが作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘にはユピテル神殿が建設された。これら土木・建築様式はエトルリアやギリシアの影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる。
王政ローマ期に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウスの頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である。
共和政ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都として益々ローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる。紀元前312年からはローマ街道の敷設が、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった。

ローマ帝国
ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した。しかし皇帝ネロ統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた。
そしてこの頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝ウェスパシアヌス在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオは石灰石を用いた化粧が施され、剣闘士の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と火山灰を混ぜたローマン・コンクリートが発明され、パンテオンなど様々な建物が次々と建設され、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している。この栄華は皇帝ディオクレティアヌスがニコメディアに遷都するまで続いた。
395年にローマ帝国が東西に分かれた後は、西ローマ帝国に属したが、西ローマ帝国は首都をラヴェンナに置いたためその政治的重要性は大きく低下した。5世紀には西ゴート人やヴァンダル人の掠奪を受けて衰微し、西ローマ帝国も476年に滅亡した。その後は西ローマを滅ぼしたオドアケル、次いで東ゴート王国の支配下に入った。
6世紀中頃、東ゴートは東ローマ帝国に滅ぼされ、ローマは再びローマ領となった。だが、度重なる戦争で荒廃し、歴代の東ローマ皇帝はローマ維持には努めたものの、重要視はしなかった。ローマを訪れた最後の“ローマ皇帝”は663年のコンスタンス2世であるが、この人物以外にローマを訪れた東ローマ皇帝はいない。この時期のローマは、宗教的にはともかく、政治的、軍事的にはラヴェンナ総督府の影響下にあった。
しかし、751年にランゴバルド族の攻撃によりラヴェンナが陥落。ローマも脅かされることになる。ローマ教皇ステファヌス3世は、教義問題で対立する東ローマ皇帝コンスタンティノス5世ではなく、フランク族のピピン3世に救援を求め、結果、東ローマ帝国から独立を果たす。

文化の中心地
この後は『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年にカールによりローマ教皇に寄進されたとされるが、この文書は今日では偽書とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となった。教皇ニコラウス5世の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマはフィレンツェにかわってルネサンスの一大中心地となり、ミケランジェロ、ブラマンテ、ラファエロなどの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、ハプスブルク家の傭兵軍による、いわゆる「ローマ劫掠」によって、この都の盛期ルネサンスは終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇シクストゥス5世の時代で、ポポロ広場から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、フェリーチェ水道を修復した。サン・ピエトロ大聖堂の丸屋根が完成したのもこの時代である。 対抗改革期のローマを特徴づけるバロック様式は、17世紀の建築物に多くみられる。ベルニーニやボロミーニのような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。スペイン階段などにみられる18世紀前半のロココ様式の建物は、やがて新古典主義の建物にかわった。1797年ナポレオン1世はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、ウィーン会議の後、ローマはふたたび教皇領となった。

参考URL:ローマ wiki
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by cluracan | 2012-05-20 22:04 | Discovery

【港・集落】 重慶

読み方は、「チョンチン」。長江上流に位置し、自然に囲まれている街。
夏は酷暑だが、冬は比較的過ごしやすい。この地で、二重の慶事があったことから、この名前が付いたといわれている。

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Tradition associates Chongqing with the semi-legendary State of Ba that the Ba people supposedly established during the eleventh century BCE. By 316 BCE, however, it had been overrun by the State of Qin. The Qin emperor ordered a new city to be constructed, which was called Jiang (江州) and Chu Prefecture (楚州).
Chongqing was subsequently renamed in 581 CE (Sui Dynasty) and later 1102, to Yu Prefecture (渝州) and then Gong Prefecture (恭州). It received its current name in 1189, after Prince Zhao Dun of the Southern Song Dynasty described his crowning as king and then Emperor Guangzong as a "double celebration" (simplified Chinese: 双重喜庆; traditional Chinese: 雙重喜慶; pinyin: shuāngchóng xǐqìng). Hence, Yu Prefecture became Chongqing subprefecture to mark the occasion.
In 1362, (Yuan Dynasty), Ming Yuzhen, a peasant rebelling leader, established the Daxia Kingdom (大夏) at Chongqing for a short time.
In 1621 (Ming Dynasty), another short-lived kingdom of Daliang[disambiguation needed ] (大梁) was established by She Chongming (奢崇明) with Chongqing as its capital.
Between 1627–1645, with the fall of the Ming Dynasty, Chongqing, together with the rest of Sichuan, were captured by the Revolts who overthrew the Ming Dynasty across the nation. Later during the Qing Dynasty, immigration to Chongqing and Sichuan took place with the support of Qing emperor.

[機械翻訳]
伝統に関連付けは、Baの人がおそらく十一世紀BCEの間に確立したBaの半伝説的な状態と重慶。
316 BCEで、しかし、それは秦の状態でオーバーランされていた。秦皇帝は江(江州)とチュー県(楚州)と呼ばれていた建設される新都市を命じた。
重慶は、その後、ユー県(渝州)、そして法輪功県(恭州)に、後に1102年581 CE(隋)に改名しました。
それは、1189年に現在の名前を受け取った南宋王朝の王子趙ダンした後に王としての彼の戴冠を説明し、天皇は"二重祭典"(簡体字中国語:双重喜庆、伝統的な中国:双重喜庆、ピンイン:shuāngchóngxǐqìng)としてGuangzong 。したがって、ユー県を記念するために小区、重慶になりました。
1362年には、(元朝)、明Yuzhen、農民反抗リーダーは、短時間に重慶でDaxia王国(大夏)を設立しました。
1621(明王朝)、大良の別の短命の王国[曖昧さ回避が必要](大梁)彼女によって設立された崇(奢崇明)は、首都として重慶である。
1627-1645の間に、明王朝の秋と、四川省の他の部分と一緒に、重慶市は、全国明王朝を倒した反乱によって捕獲された。後で清朝の間に、重慶、四川への移民は皇帝を清朝の支持を得て開催されました。


参考URL:Chongqing wiki
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by cluracan | 2012-05-20 21:24 | Discovery

【港・集落】 雲台山

読み方は、「ユンタイシャン」。春秋時代に越の王・勾践がこの地を首都とした、歴史のある街。平坦な地が続く農作地で、茶の産地としても有名。

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by cluracan | 2012-05-18 17:38 | Discovery

【港・集落】 杭州

読み方は、「ハンチョウ」。マルコ・ポーロが、美しく華やかな都市だと褒め称えたといわれている街。
文明発祥地の一つで、寺や古跡が多く立ち並ぶ。

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杭州市内の余杭区には、新石器時代末期に栄えた良渚文化(前3300年から前2200年ごろ)の遺跡がある。
春秋時代には、初め越に属し、後に呉に属した。東周の顕王35(前334)年、楚が越を滅ぼして以降は、楚に属した。
秦代には会稽郡の管轄とされ、
南北朝時代になると549年(太清3年)、梁により一時期設置された臨江郡の管轄となり、
587年(禎明元年)には陳により銭唐郡が設置されている。
589年(開皇9年)、隋朝は銭唐郡を廃止して杭州を設置、杭州の地名の所見である。
その後余杭郡と改められ、
唐代になると再び杭州、余杭郡、
そして758年(乾元元年)以降は杭州の名称が清末まで使用されることとなった。
杭州は隋代に建設された大運河(江南河部分)の南端とされ、
唐代には南北を連絡する運河が整備され、貨物の集散地とし発展、
貞観年間(627年-649年)には人口が15万人であったものが、
開元(713年-741年)には58万人を数え、広州、揚州と並ぶ経済の中心となった。
また822年(長慶2年)には白居易が杭州刺史として赴任、西湖の大規模水利事業を行っている。
五代十国時代に呉越の都となり西府と称した。呉越は杭州城壁の拡大、銭塘江の堤防整備などの水利事業を行っている。
北宋が成立すると杭州は両浙路の路治が設置され、1107年(大観元年)には杭州府に昇格した。当時は20万戸を数える江南地区最大の都市となっていた。
1089年(元祐4年)には蘇東坡が杭州知州に任じられ、西湖の浚渫事業、推理事業を行っている。南宋になると杭州はその全盛期を迎え、呉自牧により『夢粱録』に当時の杭州についての記録が残されている。
1129年(建炎3年)、行宮が杭州に置かれると杭州府は臨安府と改称、
1138年(紹興8年)には正式な遷都が行われ、杭州は宋朝の政治・経済の中心地となった。また都城の防衛のために城壁の拡張工事が行われている。国都となった臨安府の人口は急増し、咸淳年間(1265年-1274年)には124万人にまで増加している。
1276年(至元13年)、宋朝を滅ぼした元朝により杭州路が設置された。
1341年(後至正元年)杭州城内で大規模な火災が発生し15,755軒を消失、元末に杭州城は大規模な再建事業が実施された。
1358年(至正18年)、張士誠による杭州城再建が行われ、周囲64,020尺、高さ30尺、厚さ40尺というそれまでの規模を上回る杭州城を再建している。
元代の繁栄の有様は、マルコ・ポーロが「キンザイ(=行在)」として『東方見聞録』で記している。
元末の動乱期、軍事作戦を進める朱元璋は杭州行省を設置している。元末には度重なる戦火により杭州城にも被害が及び経済は衰退、西湖も泥土の堆積により農業灌漑に支障を来たすなどの被害を受けた。
明朝が成立すると杭州府が設置され江南の経済中心地として発展し、織物業や茶葉の生産などによって栄え、蘇州と並ぶ江南の大都市となった。西湖の周辺には多くの寺院や道観、別荘や庭園が集まり、多くの文人墨客が訪れている。また霊隱寺などは近接地域から多くの参拝者を集める文化都市としても発展していた。

参考URL:杭州市Wiki
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by cluracan | 2012-05-17 18:18 | Discovery

【港・集落】 泉州

読み方は、「チュワンチョウ」。かつて海上貿易の拠点として繁栄した街。
晋末に中原から多くの移民が流入したため、中原の技術や文化が伝わっている。

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秦代より開発が行われた泉州に本格的な行政区が設定されたのは260年(永安3年)に呉により東安県が設置されたのが始まりである。
梁の天監年間(502年-519年)には南安郡の郡治が設置された。西晋末に発生した中原地区の戦乱により中原より移民が多く流入し、中原の先進的な技術や文化をこの地に伝えている。
唐代に州制が施行されると700年(久視元年)に武栄州が設置され、
711年(景雲2年)に泉州と改称され現在までこの名称が使用されている。
南宋から元朝にかけては港湾都市として発展し、ベトナムやインド、アラビア半島にまで及ぶ海上交易ルートが確立し、「陶磁の道(海のシルクロード)」の拠点とし漢人のほかにもアラブ人などが居住する国際都市として発展した。
『アラビアンナイト』にも「船乗りシンドバッド」の住む舞台として登場する事からも中世イスラム世界にも知られた都市であったことが推察され、またマルコ・ポーロの『東方見聞録』には「ザイトン(「刺桐」の閩南音」の名称で紹介されている。
明には海岸線の後退に伴い港湾都市としての機能が失われ、海上交易の中心地は廈門などに移行していった。
一方で、この頃より、当時南洋と呼ばれた東南アジアのフィリピン、インドネシア、マレーシアへ労働者として赴き、華僑、華人となった人も多くでた。現地では、南安、恵安、永春、晋江など、出身地ごとに同郷コミュニティーを作り、会館を建てて、経済的や人的サポートを行った。中には、ゴムのプランテーション、食品加工、新聞発行などで、財をなした者もいた。

参考URL:泉州市Wiki
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by cluracan | 2012-05-17 18:09 | Discovery

【港・集落】 澳門

読みは「マカオ」。大きな港を擁する街。
漁業を中心とした小さな村だったが、ポルトガル人が居留するようになってからは、ヨーロッパと東アジア間の貿易の要衝となった。

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明朝以前
珠江と南シナ海の境目に位置するマカオは、もともと、漁民や蛋民と呼ばれた水上居民を中心とする漁業の村であった。その後、東南アジアなどとの通商が始まると、貿易の町として栄えてきた。

ポルトガル人の居留開始
1513年に、当時世界有数の海洋大国として世界各地にその覇権を誇っていたポルトガル人がマカオに初渡来し、明王朝との交易を開始した。
その後、1557年にポルトガルが明から居留権を得、中国大陸における唯一のヨーロッパ人居留地となった。但し、この時期のマカオの領有権はポルトガルではなく明にあり、明がマカオに税関を設置するなど主権を有していた。
なお、この前後にカトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人であるフランシスコ・ザビエルが、ポルトガル政府の支援の下、マカオを拠点に東南アジア各地でキリスト教の布教活動を行っていた。
この頃のマカオは、日本が鎖国するまでは長崎との貿易で繁栄を極めた。しかし、その後は明清交替期の動乱や広東(広州)の対外開放により、アジアにおける一大貿易港としてのマカオは次第に衰えていった。

ポルトガルの植民地に
大英帝国がアヘン戦争に勝利して、1842年に香港島を獲得すると、ポルトガルも1845年に「マカオ自由港」の成立を宣言して清の税関官吏を追い出し、ポルトガル軍がタイパ島とコロアネ島を占領し、最終的に1887年にはポルトガルが統治権を獲得し正式に同国の植民地とした。
しかし、天然の良港に恵まれアジアにおける要衝として発展した香港とは対照的に、マカオの貿易港としての機能は低下し、その地位は全く凋落してしまった。マカオは珠江の土砂が堆積しやすい位置にあり、大型の船舶が入港しにくくなっていたこと、当時ポルトガルの国力は凋落していたことも衰退の原因に挙げられよう。

参考URL:マカオWiki
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by cluracan | 2012-05-17 18:01 | Discovery


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