2012年 05月 17日 ( 6 )

【港・集落】 杭州

読み方は、「ハンチョウ」。マルコ・ポーロが、美しく華やかな都市だと褒め称えたといわれている街。
文明発祥地の一つで、寺や古跡が多く立ち並ぶ。

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杭州市内の余杭区には、新石器時代末期に栄えた良渚文化(前3300年から前2200年ごろ)の遺跡がある。
春秋時代には、初め越に属し、後に呉に属した。東周の顕王35(前334)年、楚が越を滅ぼして以降は、楚に属した。
秦代には会稽郡の管轄とされ、
南北朝時代になると549年(太清3年)、梁により一時期設置された臨江郡の管轄となり、
587年(禎明元年)には陳により銭唐郡が設置されている。
589年(開皇9年)、隋朝は銭唐郡を廃止して杭州を設置、杭州の地名の所見である。
その後余杭郡と改められ、
唐代になると再び杭州、余杭郡、
そして758年(乾元元年)以降は杭州の名称が清末まで使用されることとなった。
杭州は隋代に建設された大運河(江南河部分)の南端とされ、
唐代には南北を連絡する運河が整備され、貨物の集散地とし発展、
貞観年間(627年-649年)には人口が15万人であったものが、
開元(713年-741年)には58万人を数え、広州、揚州と並ぶ経済の中心となった。
また822年(長慶2年)には白居易が杭州刺史として赴任、西湖の大規模水利事業を行っている。
五代十国時代に呉越の都となり西府と称した。呉越は杭州城壁の拡大、銭塘江の堤防整備などの水利事業を行っている。
北宋が成立すると杭州は両浙路の路治が設置され、1107年(大観元年)には杭州府に昇格した。当時は20万戸を数える江南地区最大の都市となっていた。
1089年(元祐4年)には蘇東坡が杭州知州に任じられ、西湖の浚渫事業、推理事業を行っている。南宋になると杭州はその全盛期を迎え、呉自牧により『夢粱録』に当時の杭州についての記録が残されている。
1129年(建炎3年)、行宮が杭州に置かれると杭州府は臨安府と改称、
1138年(紹興8年)には正式な遷都が行われ、杭州は宋朝の政治・経済の中心地となった。また都城の防衛のために城壁の拡張工事が行われている。国都となった臨安府の人口は急増し、咸淳年間(1265年-1274年)には124万人にまで増加している。
1276年(至元13年)、宋朝を滅ぼした元朝により杭州路が設置された。
1341年(後至正元年)杭州城内で大規模な火災が発生し15,755軒を消失、元末に杭州城は大規模な再建事業が実施された。
1358年(至正18年)、張士誠による杭州城再建が行われ、周囲64,020尺、高さ30尺、厚さ40尺というそれまでの規模を上回る杭州城を再建している。
元代の繁栄の有様は、マルコ・ポーロが「キンザイ(=行在)」として『東方見聞録』で記している。
元末の動乱期、軍事作戦を進める朱元璋は杭州行省を設置している。元末には度重なる戦火により杭州城にも被害が及び経済は衰退、西湖も泥土の堆積により農業灌漑に支障を来たすなどの被害を受けた。
明朝が成立すると杭州府が設置され江南の経済中心地として発展し、織物業や茶葉の生産などによって栄え、蘇州と並ぶ江南の大都市となった。西湖の周辺には多くの寺院や道観、別荘や庭園が集まり、多くの文人墨客が訪れている。また霊隱寺などは近接地域から多くの参拝者を集める文化都市としても発展していた。

参考URL:杭州市Wiki
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by cluracan | 2012-05-17 18:18 | Discovery

【港・集落】 泉州

読み方は、「チュワンチョウ」。かつて海上貿易の拠点として繁栄した街。
晋末に中原から多くの移民が流入したため、中原の技術や文化が伝わっている。

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秦代より開発が行われた泉州に本格的な行政区が設定されたのは260年(永安3年)に呉により東安県が設置されたのが始まりである。
梁の天監年間(502年-519年)には南安郡の郡治が設置された。西晋末に発生した中原地区の戦乱により中原より移民が多く流入し、中原の先進的な技術や文化をこの地に伝えている。
唐代に州制が施行されると700年(久視元年)に武栄州が設置され、
711年(景雲2年)に泉州と改称され現在までこの名称が使用されている。
南宋から元朝にかけては港湾都市として発展し、ベトナムやインド、アラビア半島にまで及ぶ海上交易ルートが確立し、「陶磁の道(海のシルクロード)」の拠点とし漢人のほかにもアラブ人などが居住する国際都市として発展した。
『アラビアンナイト』にも「船乗りシンドバッド」の住む舞台として登場する事からも中世イスラム世界にも知られた都市であったことが推察され、またマルコ・ポーロの『東方見聞録』には「ザイトン(「刺桐」の閩南音」の名称で紹介されている。
明には海岸線の後退に伴い港湾都市としての機能が失われ、海上交易の中心地は廈門などに移行していった。
一方で、この頃より、当時南洋と呼ばれた東南アジアのフィリピン、インドネシア、マレーシアへ労働者として赴き、華僑、華人となった人も多くでた。現地では、南安、恵安、永春、晋江など、出身地ごとに同郷コミュニティーを作り、会館を建てて、経済的や人的サポートを行った。中には、ゴムのプランテーション、食品加工、新聞発行などで、財をなした者もいた。

参考URL:泉州市Wiki
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by cluracan | 2012-05-17 18:09 | Discovery

【港・集落】 澳門

読みは「マカオ」。大きな港を擁する街。
漁業を中心とした小さな村だったが、ポルトガル人が居留するようになってからは、ヨーロッパと東アジア間の貿易の要衝となった。

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明朝以前
珠江と南シナ海の境目に位置するマカオは、もともと、漁民や蛋民と呼ばれた水上居民を中心とする漁業の村であった。その後、東南アジアなどとの通商が始まると、貿易の町として栄えてきた。

ポルトガル人の居留開始
1513年に、当時世界有数の海洋大国として世界各地にその覇権を誇っていたポルトガル人がマカオに初渡来し、明王朝との交易を開始した。
その後、1557年にポルトガルが明から居留権を得、中国大陸における唯一のヨーロッパ人居留地となった。但し、この時期のマカオの領有権はポルトガルではなく明にあり、明がマカオに税関を設置するなど主権を有していた。
なお、この前後にカトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人であるフランシスコ・ザビエルが、ポルトガル政府の支援の下、マカオを拠点に東南アジア各地でキリスト教の布教活動を行っていた。
この頃のマカオは、日本が鎖国するまでは長崎との貿易で繁栄を極めた。しかし、その後は明清交替期の動乱や広東(広州)の対外開放により、アジアにおける一大貿易港としてのマカオは次第に衰えていった。

ポルトガルの植民地に
大英帝国がアヘン戦争に勝利して、1842年に香港島を獲得すると、ポルトガルも1845年に「マカオ自由港」の成立を宣言して清の税関官吏を追い出し、ポルトガル軍がタイパ島とコロアネ島を占領し、最終的に1887年にはポルトガルが統治権を獲得し正式に同国の植民地とした。
しかし、天然の良港に恵まれアジアにおける要衝として発展した香港とは対照的に、マカオの貿易港としての機能は低下し、その地位は全く凋落してしまった。マカオは珠江の土砂が堆積しやすい位置にあり、大型の船舶が入港しにくくなっていたこと、当時ポルトガルの国力は凋落していたことも衰退の原因に挙げられよう。

参考URL:マカオWiki
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by cluracan | 2012-05-17 18:01 | Discovery

【港・集落】 浦項

読みは「ポハン」。朝鮮半島東岸に位置する。街の近くには、美しい山が広がる。

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영일만에서 조사된 구석기시대 유적으로 장기면 산서리와 동해면 임곡리 그리고 기계면 구지리와 기계면 하대리에서도 구석기시대의 유물이 지표면에서 수집되었다. 포항에서 청동기 시대 주거지 유적이 발굴된 곳은 홍해읍 초곡리, 오천읍 워리, 구룡포읍 석병리, 강사리 등이며 계속해서 청동기 시대의 주거지 유적이 많이 확인되고 있다.[1]
《삼국지》 위서 오환선비동이전에는 진한 12국의 나라 이름이 실려있다. 여기에 나오는 진한 12국 중 근기국이 포항시에 위치한 나라였다. 근기국 주민의 형성은 토착민과 유이민 세력으로 이루어졌으며, 냉천과 형산강을 중심으로 하는 구릉지와 평야에 토착세력이 생활하고 있는 가운데 유이민 세력이 주로 해안을 통하여 이주해 오면서 나라를 형성하였다. 근기국은 오늘날 포항시 인덕동, 호동, 오천읍, 대송면, 동해면 및 인근지역에 형성된 읍락들을 지배하면서 소국을 이루어 이 지방의 중심 세력으로서 역할을 하였다. 파사이사금 대에 들어와 근기국, 다벌국, 초팔국이 신라에 합병되었고, 이 지역은 신라가 직접 통치를 하게 되었다.

[機械翻訳]
迎日湾に調査された旧石器時代の遺跡で、長期には、山西省の里と東海はイムゴクリそしてマシンが旧里とマシンがハデリも旧石器時代の遺物が地表から収集された。 浦項(ポハン)で青銅器時代の住居遺跡が発掘されたのはホンヘウプチョゴクリ、オチョンウプウォーリー、グリョンポウプソクビョンリ、ガンサリなどで継続して青銅器時代の住居遺跡が多く確認されている。
" 三国志 "魏書オファンソンビドンイジョンエヌン濃い12局の国の名前が載っている。 ここに出てくる濃い 12カ国のうちグンギグクが浦項市に位置する国であった。 グンギグク住民の形成は、先住民とユイミン勢力で行われ、冷泉と兄山江を中心とする丘陵地と平野の土着勢力が生活している中でユイミン勢力が、主に海岸を介して移住してきて、国を形成した。 近い将来国は今日、浦項市インドクドン、ホドン、オチョンウプ、デソンは、東海ととその周辺に形成された邑落を支配しながら小国を行わこの地方の中心勢力としての役割を果たした。 パサ尼師今の立場に入ってグンギグク、ダボルグク、チョパルグクイ新羅に併合され、この地域は新羅が直接統治をするようになった。

参考URL:포항시Wiki
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by cluracan | 2012-05-17 17:35 | Discovery

【港・集落】 釜山

読みは「プサン」。元は漁村であったが、貿易の拠点として発展を遂げた。

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古代
古代は任那(伽耶)に含まれる地域である。新羅に合併された時に居漆山郡になり、統一新羅時代の757年に良州(現在の梁山市)所属の東莱郡を設置、現在の市街地地域に東平県、機張郡に機張県が東莱郡の下に設けられているが、地域の中心は金海にあった。

中世・近世
高麗時代の富山浦は蔚州の東莱県に所属する漁村であった。
李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代、釜山地域にははじめ東莱県、のちに東莱府(東莱都護府)が置かれた。
対日防衛の要衝であることから慶尚左道都万戸が置かれた。また、対日交易の拠点としても重要な位置を占め、
15世紀始めには富山浦に日本人居留地である倭館が設置された(浦所倭館)。以後、釜山地域は三浦の乱や文禄・慶長の役など中世日朝関係の曲折の舞台となった。
朝鮮王朝と江戸幕府の交渉が復活すると、龍頭山一帯に対馬藩の草梁倭館が設置された。江戸時代、鎖国下の日本では、唯一日本人が海外に居住できる場所となった。

参考URL:釜山広域市Wiki
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by cluracan | 2012-05-17 17:09 | Discovery

【港・集落】 漢陽

読みは「ハンヤン」。「漢水より北の大地」という意味がある。百済時代の都があったため歴史は古く、遺物が多く発見される。

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漢陽・漢城
「漢陽(ハニャン)」は新羅の時代から使われた名称で、「陽」が川の北側を意味することがあって、「漢水(漢江)の北側の土地」の意味でつけられた地名だったが、高麗初期に楊州と改められた。
高麗文宗代に南京となり留守が置かれる。忠烈王代の1308年に「漢陽(府)」の名称に復帰するが、李氏朝鮮建国後の1395年「漢城(ハンソン)」に改称された。李朝の王都になったため、京都の意味を持っているソウルと呼ばれた。ゆえに漢陽などは訓の当て字になってそれらをソウルと読んでいたが、現代朝鮮語では漢字の音読以外はほとんどハングルだけで表記することになって、中国、台湾などの中国語圏では、「ソウル」に相当する漢字表記がなかったこともあり、長らくソウルのことを(旧名で)漢城と呼び、仁川国際空港近辺などの韓国の道路交通標識にもハングルと併記で「漢城」と表記されていた。新表記の「首爾(ショウアル)」(後述)が制定されたことに伴い、徐々に状況は変化している。

古くは百済の都・漢城が置かれており、隣接する河南市にある遺跡からは多くの遺物が出土している。
西暦475年高句麗軍によって陥落すると、百済は熊津(公州)に遷都し、統一新羅時代には漢山州と呼ばれ、
757年には漢州の漢陽郡に改められた(中原京が小京として漢州の下に設けられた)。高麗時代には市域の北部は楊州、南部は広州と呼ばれ、
1067年には三小京のひとつである南京が置かれた。
1392年高麗の将軍・李成桂が威化島回軍によって政権を奪取し、
1394年には開京(現・開城)から漢陽遷都を決行した。翌1395年に漢陽府は漢城府に改称され、これ以後、漢城(ソウル)は500年に渡って李氏朝鮮の都となる。
李朝末期の時点では市内が5部49坊に細分化されていた。

参考URL:ソウル特別市Wiki

李舜臣Wiki
豊臣秀吉が朝鮮を攻めた際に朝鮮水軍を率いて日本軍と戦った李氏朝鮮の英雄。
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by cluracan | 2012-05-17 17:01 | Discovery


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