2012年 04月 22日 ( 3 )

【港・集落】 リガ

13世紀初めに、ドイツ騎士団によって築かれた街。バルト海に面しており、ロシア地方との重要な交易拠点。重要な産物は多種の鉱物と羽毛である。

e0020973_14505098.jpg


リガの記録は既に2世紀には見られる。長くヴァリャーグによる東ローマ帝国への交易ルートとして、ダウガヴァ川は古来より利用されており、河口から15キロに広がるリガは、天然の良港であった。リガという名称もリヴォニア語の「円」という意味から由来する、とされる。(港の形状が円形だった。)
12世紀までには交易だけでなく漁業や畜産の拠点となり、ドイツ人商人の入植も12世紀半ばから盛んになる。
教皇インノケンティウス3世の命を受けたシトー会のアルベルトが、1200年に北方十字軍を組織しリヴォニアに侵攻、23隻の軍艦と1500人の十字軍兵でリガを制圧し、リーヴ人の服属と改宗を行った。
1202年に、アルベルトは、リヴォニア帯剣騎士団をリガで創立。以降、リガはバルト海とロシアの中継貿易拠点として重きをなしてくる。
1282年にはハンザ同盟に加盟。経済発展の地歩を固めるが、同時にリガの繁栄は侵略者を招くこととなる。1522年には、プロテスタントを受容。1561年のドイツ騎士団の解散で、それ以後の20年間は帝国自由都市となる。
1581年から、リガはポーランド・リトアニア共和国の支配を、1621年からはグスタフ2世アドルフのスウェーデン王国の支配を受ける。リガはスウェーデン王国最大の都市であった。18世紀に大北方戦争が起こると、ロシアのピョートル1世がリガに侵攻、スウェーデン時代は終焉を迎える。

参考URL:リガWiki
[PR]
by cluracan | 2012-04-22 14:52 | Discovery

【港・集落】 リオデジャネイロ

16世紀初頭、探検家ガスパール・デ・レモスによって発見され、大きな湾を河口と間違えて「一月の川」を意味する「リオデジャネイロ」と名づけられた。

e0020973_14432059.jpg


1502年1月にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスたちがグアナバラ湾の湾口であるこの地に到達。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名した。ポルトガル人たちは海岸に壁を白く塗った家を建てて住んだ。先住民のトゥピ族は彼ら白人を「カリ・オカ」(トゥピー・グゥアラニー語で白い家の意味)と呼んだ。それが現代語のカリオカの起源である。
1555年にフランスの植民地開拓者が南極フランス居留地をつくったが
1567年にこれをポルトガル人は追い出し、18世紀までここに小さなコミュニティをつくっていた。町の名は川(実は湾)の名の転用である。
17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかった。
しかし18世紀前半に内陸のミナスジェライス州周辺で金鉱が発見された。この金の集散地は、当初は金鉱発見者であるバンデイランテスたちの基地であるサンパウロであったが、
1725年にリオとミナスジェライスを結ぶ新道が開通すると、距離的に近いリオがサンパウロに代わってミナスの金やダイアモンドの積出港となり、ブラジル植民地の交通と富の中心となった。このためそれまで栄えていた北東部から南東部への重心の移動が生じ、
1763年にはブラジル総督がサルヴァドール・ダ・バイーアからリオにうつされブラジル植民地首府となった。
1808年に半島戦争の勃発により、リスボンのポルトガル宮廷はナポレオン軍を逃れてリオに移転した。
翌1809年、リオがポルトガル・ブラジル連合王国の首都となる。これによりリオは人口も増加し、また高い文化を持った移住者たちによって文化も進歩した。
1821年には王の帰還と共に首都もリスボンに再遷都されたが、ポルトガルがブラジルの統治に軍を送り込んだためブラジル側の憤激を買い、独立派はリオに残っていた王太子ドン・ペドロを擁立して
1822年にブラジル帝国の独立を宣言し、リオはブラジル帝国の首都となった。

参考URL:リオデジャネイロWiki
[PR]
by cluracan | 2012-04-22 14:48 | Discovery

【港・集落】 ランバイェケ

インカ帝国が栄える以前に繁栄していた文化の中心地。一年を通して温和な気候に恵まれているため、過ごしやすい。

e0020973_1422529.jpg


Legend tells that in ancient times, a great float of balsa rafts arrived at the beaches of the existing San José cove. Formed by a brilliant cortege of nine foreign warriors, this float was led by a man of great talent and courage, named Naymlap, the mythical founder of the first northwest civilization.
Among the descendants of Naylmlap were the Moche and the Chimú, the latter builders of a great civilization forged in Lambayeque before being conquered by the later Inca Empire. The Chimú grew to acquire a notable state parallel to the Inca. The Chimú moved their capital to the northern area, establishing great urban centers there. They were great farmers, textile experts and, wonderful goldsmiths, with extraordinary works in gold.
The Inca conquest of what today is Lambayeque, lasted almost four decades. Pachacuti, Tupac Inca Yupanqui and Huayna Cápac, successively, ruled during the process.
In the 16th century, the Spaniard leader Francisco Pizarro took his conquistadors across the region on the way to Cajamarca to conclude the defeat of the Inca empire. He was amazed by the gold exposed in vases and utensils.
During Colonial times, a rivalry started between the people of the towns of Lambayeque and Santiago de Miraflores de Saña. The reason of the conflict was the opulence in which the latter lived, even provoking the greed of pirates. A flood in 1720, however, destroyed Saña and marked the end of a flourishing city.
The people of Lambayeque followed Juan Manuel Iturregui as their leader in the struggles for emancipation and independence from Spain. He spread the libertarian ideas and helped get arms for the cause.

(機械翻訳)
伝説によると、古代では、バルサラフトの大きなフロートは、既存のサン·ホセの入り江のビーチに到着したこと伝えます。 9外国の戦士たちの華麗な葬列によって形成され、このフロートはNaymlapという偉大な才能と勇気の人、最初の北西文明の神話の創始者によって導かれた。
Naylmlapの子孫の間でモチェやチムー族、後にインカ帝国によって征服される前にランバイェケで偽造された偉大な文明の後者のビルダーであった。チムー族はインカに注目すべき状態並列を取得することとなりました。チムー族が大きな都市の中心部を確立し、北部地域への資金を移動しました。彼らは金の異常な作品で大きな農家、繊維の専門家や、素晴らしい細工であった。
何今日のインカ征服は、ランバイェケは、ほぼ四十年続いた。 Pachacuti、トゥパックインカユパンキとワイナ·カパックは、順次、処理中に判決を下した。
16世紀に、スペイン人の指導者フランシスコ·ピサロがインカ帝国の敗北を締結するカハマルカへの道上の領域を越えて彼の征服した。彼は、花瓶や食器で公開されて金に驚きました。
植民地時代に、競争はランバイェケとサンティアゴ·デ·ミラフローレスデラサナの町の人々の間で開始しました。対立の理由はあっても海賊の欲を刺激、後者は住んでいた富裕であった​​。 1720年の洪水は、しかし、サナを破壊し、繁栄街の終わりを迎えました。
ランバイェケの人々は解放とスペインからの独立闘争の指導者としてのフアン·マヌエル·Iturreguiに続いた。彼は、リバータリアン思想を普及し、大義のために武器を取得しました。

参考URL:Lambayeque Region Wiki
[PR]
by cluracan | 2012-04-22 14:40 | Discovery


大航海時代onlineの1プレイヤーの日記


by cluracan

プロフィールを見る
画像一覧

カテゴリ

全体
Top
Diary
Company
Link
Travel
Discovery

以前の記事

2012年 12月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2009年 01月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月

フォロー中のブログ

チハ改のDOL雑記@乙鯖

メモ帳

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧