2012年 03月 21日 ( 5 )

【港・集落】 ピサ

古代ローマの時代に開拓された、古い街。ピサの斜塔があることで有名。イタリア諸都市の中で最初に都市国家の宣言をした。主な産物は高級織物や大理石像などである。

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古代
ピサの起源は数世紀に渡って不明なままである。市は2つの川、リグリア海で潟地帯を形成するアルノ川とセルキオ川の合流地点にある。ペラスゴイ人、ギリシャ人、エトルリア人、リグーリア人といった多様な民族が市の創立者として名を連ねてきた。
紀元前5世紀からの考古学的痕跡は、市が海に面してギリシャ、ガリアと交易を行っていたことを立証している。
ピサ海運の役割は既に古代から、船嘴の発明のために自治体としての地位は揺るぎのないものとなっていた。当時小さな村にすぎなかったジェノヴァから、オスティアへ至る沿岸唯一の港湾として、ピサは利用されていった。ピサは、ローマ海軍の対リグーリア人、ガリア人、カルタゴ人遠征の基地とされた。
紀元前180年、ローマ法の下で植民地ポルトゥス・ピサヌス(Portus Pisanus)となった。
紀元前89年、ポルトゥス・ピサヌスはムニキピウムとなった。皇帝アウグストゥスは重要港として植民地の防衛を強化し、その名をコロニア・ユリア・オブセクエンス(Colonia Iulia obsequens)へ変更した。
313年以降、キリスト教の司教座が置かれていた。

古代後期・中世初期
ローマ帝国の衰退期、ピサはイタリアの他都市大半のように衰えなかったといわれている。川の体系の複雑さゆえと、防衛の結果の平穏ゆえであった。
7世紀、ピサはローマ教皇グレゴリウス1世 に対し、教皇が行うラヴェンナの対東ローマ帝国軍事遠征においておびただしい数の船舶を供給することで支援した。ピサは、トスカーナ(当時はトゥスキア)が自らの通商権が妨げられた近郊地域とともに同化したことで、大した抵抗もなくロンゴバルド族の手に陥ちた中、たった一つ残った東ローマ帝国の中心であった。ピサはこのやり方で北ティレニア海の主要港としてその存在を重くし、トスカーナ=コルシカ島及びサルデーニャ島、フランス・スペインの南岸間の主要貿易中心地となった。
カール大帝が、ロンゴバルド王デジデリウス指揮のロンゴバルド軍を774年に打破した後、ピサは危機を迎えたがすぐに回復した。政治的にはルッカ公国の一部となった。
930年、ピサはトゥスキアの辺境侯内の州都となった(この地位は神聖ローマ皇帝オットー1世が即位するまで保持された)。ルッカは首都となったが、ピサはそれをしのぐ最重要都市となった。
10世紀半ばのクレモナ司教リウトプランドは、ピサを『トゥスキア州の首都』(Tusciae provinciae caput)と呼んだ。そして一世紀後、トゥスキア辺境侯はピサ侯と普通に称されるようになった。
1003年、ピサは、ルッカの方針に反し、イタリアにおける最初のコムーネ戦争の主役となった。海軍の要衝としての観点から、9世紀以降サラセン人海賊の出現が市をその海軍力の拡大に駆り立てることとなった。続く年月、この海軍力がピサにさらなる拡大の機会を与えた。
828年、ピサ艦隊が北アフリカを猛襲した。
871年、ピサ艦隊はサラセン人からのサレルノ防衛の主力となった。
970年、ピサ艦隊は、カラブリア沿岸の前線で東ローマ帝国艦隊を打ち負かすという、オットー1世の遠征に強力な支援も行った。

11世紀
ピサの力は強固な海運国家として成長し始め、歴史的なイタリアの海洋国家4つのうち1つ(その他の3つとは、アマルフィ共和国、ジェノヴァ共和国、そしてヴェネツィア共和国)に数えられる伝統ある栄誉を獲得した、11世紀に頂点に達した(レプブリケ・マリナーレ)。
当時、ピサは非常に重要な貿易市であり、突出した地中海商人の艦隊及び海軍によって管理されていた。1005年、南イタリアのレッジョ・カラブリア略奪によってその勢力を伸ばした。ピサは絶え間なく、サルデーニャやコルシカを基地とし、地中海を手中に置こうとするサラセン人と対立した。
1017年、サラセン人王ムガヒドの敗北によって、ジェノヴァと同盟したピサがサルデーニャを陥落させた。この勝利は、ピサにティレニア海での覇権を与えた。ピサがその後サルデーニャからジェノヴァを追い出すと、新たな対立と敵対関係が2つの海洋共和国の間に生まれた。
1030年から1035年の間、ピサはシチリアにおいていくつもの敵対する町を打ち負かすのに成功し、北アフリカのカルタゴを征服した。
1051年から1052年、提督ヤコポ・チウリーニがジェノヴァからさらなる憤怒を挑発して、コルシカ島を征服した。
1063年、提督ジョヴァンニ・オルランドはサラセン人海賊からパレルモを奪ったノルマン人ルッジェーロ1世の支援へ向かった。パレルモでサラセン人から黄金の財宝を奪うことをピサ人は許された(ピサの大聖堂や有名なミラコーリ広場を建てるためであった)。
1060年、ピサはジェノヴァとの最初の戦いに従事しなくてはならなかった。ピサの勝利が、地中海でのその地位を堅固にすることとなった。
1077年 教皇グレゴリウス7世は1077年にピサ人によって施行された『海の慣習法』を承認した。そして皇帝ハインリヒ4世はピサに、長老会議で助言される独自の執政官を任命する権利を授けた。これは単純に当時の状況の確認であった。なぜならばそれまでピサ侯が既に権力から閉め出されていたからである。
1092年、教皇ウルバヌス2世は、ピサをコルシカ及びサルデーニャにおける宗主国として認め、同時に町の地位を大司教座の位へ引き上げた。
1088年、ピサは北アフリカのマフディア(現チュニジア)を略奪した。
4年後、ピサとジェノヴァの艦隊は、バレンシア王国のエル・シドを討つカスティーリャ王アルフォンソ6世を支援した。120隻ものピサ艦隊は第1回十字軍にも参加した。
1099年 そしてピサ人は1099年のエルサレム占領において助けとなった。聖地へ至るピサの艦隊は、東ローマ帝国領の島々をいくつか略奪する機会を忘れなかった。ピサ人の十字軍はピサ大司教ダゴベルト(のちにエルサレム総主教となる)に率いられていた。ピサとその他の海洋共和国は十字軍で、シリア、レバノン、パレスチナの東地中海沿岸諸都市で通商地点や植民地をつくった。特にピサ人はアンティオキア、ヤッファ、トリポリ、ティルス、ラタキヤ、アッコンに植民地をたてた。彼らはエルサレムとカエサリアにも別の所領を持ち、加えてカイロ、アレクサンドリアに、より小さな自治権を持つ植民地を抱えていた。もちろんコンスタンティノープルにも、皇帝アレクシオス1世コムネノスから特別な係留許可と通商権とを授けられていた。これら全ての都市で、ピサ人は特権と徴税免除権を授けられていた。しかし都市が攻撃された場合は防衛に貢献しなければならなかった。
12世紀 コンスタンティノープル東部にあるピサ人居住区は人口1,000人に成長していた。
12世紀の数年間、ピサはヴェネツィア共和国に打ち勝ち、東ローマ帝国と軍事同盟を結んだ国家であり、最も地位に揺るぎない商人となっていた。

12世紀
1113年 ピサと教皇パスカリス2世は共にバルセロナ伯とその他プロヴァンス及びイタリア諸侯(ジェノヴァを閉め出している)と組んでムーア人からバレアレス諸島を解放する戦争を始めた。マジョルカの王・王妃は鎖につながれてローマへ連行された。ムラービト朝はすぐに諸島を再征服したのだが、戦利品はピサ人が壮麗な建物の部品とするため持ち出していた(特に大聖堂建設のため)。ピサは西地中海における最高位を狙える地位を得た。
その後数年の強力なピサ艦隊は、ピエトロ・モリコーニ大司教に率いられ、残忍な戦闘の後にサラセン人を海へ投げ込んだ。短期間ではあるが、ピサのこのスペインにおける戦勝はジェノヴァとの敵対関係を悪化させた。ピサの対ラングドック貿易、対プロヴァンス貿易(ノーリ、サヴォーナ、フレジュス、モンペリエ)は、イエール、フォス、アンティーブ、マルセイユのような都市でジェノヴァ勢力の障害となったのである。
1119年~1133年 1119年にジェノヴァが、母国へ戻る途中の数隻のピサ船舶に攻撃したことで戦争が始まり、1133年まで続いた。2都市は互いに陸海で争ったが、戦闘行為は海賊のような猛攻と略奪に限られていた。
1135年6月 クレルヴォーのベルナルドゥスがピサ会議の主導者となり、彼は1130年に選出された教皇アナクレトゥス2世に対抗してインノケンティウス2世の権利を援護した。アナクレトゥス2世はノルマン人支持を得て教皇に選出されたが、ローマの外では正式な教皇に認められていなかった。インノケンティウス2世はジェノヴァとの対立を解消すべく、ピサとジェノヴァそれぞれの領域を取り決めた。 ピサは決定にならったが、ジェノヴァによって妨げられた。シチリア王ルッジェーロ2世とインノケンティウス2世の対立が関係していたためである。
1136年8月6日 海洋共和国の一つアマルフィ共和国(ノルマン支配に変わってから既に衰退し始めていた)を、ピサが征服した。ピサは港に停泊する船舶を破壊し、周辺地域の複数の城を略奪、そしてアヴェルサからルッジェーロ2世が送り込んだ軍を後退させた。この勝利がピサをその権力の頂点へ導き、ヴェネツィアと対等の位置へと押し上げた。2年後、ピサ兵がサレルノを略奪した。
続く数年、ピサはギベリン(皇帝派)の忠実な支持者の一つであった。これが皇帝フリードリヒ1世によってさらに評価された。
彼は1162年と1165年に2つの重要な公文書と、以下の特権を授けた。『ピサの田園地帯における司法権から帝国が手を引くこと、ピサ人は神聖ローマ帝国全土、チヴィタヴェッキア、ポルトヴェーネレ、パレルモの半分、メッシーナ、サレルノ、ナポリ、ガーエタ全体、マーザラ・デル・ヴァッロ、トラーパニなど沿岸都市で貿易の自由が授けられること、シチリア王国の全ての都市でピサ商人の家が通りに建てられること』。これらの特権の一部は後にハインリヒ6世、オットー2世、フリードリヒ2世らによって追認された。これらはピサの権力の最高潮を記していた。しかし、ルッカ、マッサ、ヴォルテッラ、フィレンツェといった都市のピサへの敵意にも拍車がかかった。これら諸都市は海に向かって横切り自国の力を拡大するもくろみがあった。ルッカとの衝突も、モンティノーゾ城の所有と、フランチジェナ街道(ローマ=フランス間の主要交易道)の掌握という狙いに関係していた。ピサの突然の権力拡大は、ジェノヴァとの別の戦いへ導くことになっただけだった。
ジェノヴァは南フランスの市場で広範囲に優勢な地位を獲得していた。戦争は1165年にローヌ川で、ピサの通商中心地へ護送していたピサ船を、ジェノヴァと同盟者であるトゥールーズ伯が攻撃したことで始まった。これは失敗した。ピサは他方でプロヴァンス伯とも同盟していたのである。戦争は1175年まで決定的な勝利のないまま続けられた。摩擦の別の局面は、ピサ、ジェノヴァともハインリヒ6世によって特権を授けられていたシチリアで起きた。
1192年、ピサはメッシーナ征服を成し遂げた。この挿話は、1204年のジェノヴァのシラクーザ占領という全盛を極めた戦いによって、続いて起きた。後、シチリアの貿易地点は新教皇インノケンティウス3世が即位したことで失われた。彼の前任者ケレスティヌス3世(フィレンツェ率いるトスカーナのゲルフ同盟と同盟していた)によってピサが破門された見解を排除したにもかかわらずである。すぐに彼はジェノヴァとの条約を明文化し、南イタリアでのピサの存在がさらに弱まることになった。
南ティレニア海でジェノヴァが優勢であるのと反対に、ピサはスペイン・フランスの伝統的な基盤との協力関係を強化していた(マルセイユ、ナルボンヌ、バルセロナなど)。そしてアドリア海を治めるヴェネツィアへ挑もうとしていた。
1180年、ピサとジェノヴァはティレニア海及びアドリア海での非集団的条約に同意した。しかしコンスタンティノープルの皇帝マヌエル1世コムネノスが死んだことで状況が変化した。すぐにヴェネツィアの護送船団が東ローマで攻撃されたのである。ピサはアンコーナ、プーラ、ザダル、スプリト、そしてブリンディジとの貿易・政治的法令に署名した。
1195年、ピサの船隊はヴェネツィアからの独立を守るプーラへ到着したが、セレニッシマ(ヴェネツィア共和国の別称)はすぐ反乱を起こした海港を再平定し遂げたのである。
1年後、2都市はピサにとって好ましい結果となった和平条約に署名した。
しかし1199年、ピサ人がプッリャにあるブリンディジ港を封鎖するという乱暴をジェノヴァに対して働いた。続く海戦ではピサはヴェネツィア艦隊に破られた。
1206年に終わった戦争で、ピサはアドリア海への拡大の野望を全てあきらめる条約を結んだ(アドリア海での既にある貿易地点は保持された)。ピサ=ヴェネツィア共闘における観点から、ジェノヴァの台頭に対抗して団結し、時には対コンスタンティノープル貿易による恩恵の増大に手を結んだのだった。

13世紀
1209年と1217年、レーリチでジェノヴァとの敵対関係の最終解決のため2度の会議が開かれ、20年間の和平条約が結ばれた。しかし1220年、フリードリヒ2世がチヴィタヴェッキアからポルトヴェーネレまでのティレニア海沿岸を自分の宗主権が及ぶ地域と確認した。反ピサを旗印に掲げたジェノヴァとトスカーナの反感が再熱したのである。その後の数年間のピサは、ガルファニャーナでルッカと激突し、カステル・デル・ボルコでフィレンツェ軍によって敗退させられた。ピサの強力な皇帝支持派としての位置が、神聖ローマ皇帝と格闘していた教皇に対してこの町を全く正反対にしてしまっていた。そしてついに教皇は北サルデーニャにあるピサの所領と町を奪い取ろうとした。  
1238年、グレゴリウス9世は反皇帝派であるジェノヴァ=ヴェネツィア間の同盟関係を樹立させ、結果としてその同盟は反ピサ同盟にもなった。一年後、グレゴリウス9世は皇帝フリードリヒ2世を破門し、1241年にはローマで反皇帝会議が招集された。1241年5月3日、皇帝の息子エンツォ率いるピサの連合艦隊とシチリア船団が、北イタリアとフランス、トスカーナの前にあるイーゾラ・デル・ジーリオから運んできた高位聖職者を乗せたジェノヴァの護衛船へ攻撃を仕掛けた。ジェノヴァは25隻の船とおよそ1000人の船乗りが失われ、2人の枢機卿と1人の司教は身代金のため捕虜として連れ去られた。この目立った勝利の後、ローマでの会議は失敗した。しかし、ピサは破門された。この極端な処置は1257年に除かれただけだった。いずれにしろ、トスカーナ諸都市はコルシカの都市アレーリアを征服するのに好ましい位置にあり、その地の利を利用しようとしていた。1243年にはトスカーナ諸都市がジェノヴァを包囲しようと準備さえした。
リグーリアにあるジェノヴァ共和国はしかし、この一撃から素早く立ち直り、数年前にピサが征服していたレーリチを、1256年に奪い返した。
地中海での大きな拡張と商人階級の突出は、市の慣習における修正を勧告した。施政官のいるシステムは1230年に廃止され、新たな市の統治者は政軍の指導者として市民隊長(Capitano del Popolo)と名付けられた。これらの改正にもかかわらず、征服地と共和国本国は、デッラ・ゲラルデスカ家とヴィスコンティ家の競争関係にある2貴族によって悩まされた。1237年、大司教と皇帝フリードリヒ2世がライバル関係の2家を和解させようと仲介したが、緊張は止まなかった。1254年、市民が暴動を起こし、コムーネにおける彼らの政治代表として12人のアンツィアーニ・デル・ポポロ(Anziani del Popolo、市民の長老)を押しつけた。彼らも立法権のある評議委員(貴族からなる)を補足し、新たな市民の評議委員とともに、主要なギルドや市民の会社の長老によって構成されていた。これらは、主要な全体議会と立法機関の法律を批准する権力を持っていた。

衰退
アルベルティーノ・モロシーニが指揮するピサ最高艦隊が、1284年8月6日のメローリアの海戦で、ベネデット・ザッカリーアとオベルト・ドーリア率いるジェノヴァ艦隊の輝かしい高等戦術に大敗を喫した時、ピサの衰退が始まった。この敗北でピサの海運力は終わり、共和国は二度と以前のような力を取り戻すことはなかった。1290年、ジェノヴァはピサの主要港であるピサーノ港を破壊した。そして、スキピオ・アエミリアヌスがカルタゴにしたように、塩で覆ったのである。ピサ周辺地域は、メローリア海戦によって数千人の船員を失った痛手から復活するのをピサに許さなかった。一方でリグーリア地方がジェノヴァへ十分な船員を補償したのである。品質が劣ったけれども品物が貿易で行き来し続けたが、アルノ川がその流れを変え始めた時、終焉がやってきた。川から上がって市の港へ入るガレー船を妨げるようになったのである。そして近郊でマラリアの流行がみられるようになった。1324年のうちに、サルデーニャ全体がアラゴン王国に奪われた。
常に皇帝派であったピサは、14世紀の過程で、コンドッティエーレであるウグッチョーネ・デッラ・ファッジュオーラ指揮のピサ軍はモンテカティーニの戦いでフィレンツェ共和国を敗退させさえし、ピサは再び軍事力を作り上げようとした。しかしそのすぐ後、ピサは共和国内の内部闘争によって二分され、力を失ったことで弱体化し、1406年にフィレンツェに占領された。1409年、ピサは大シスマ解消を目的としたピサ公会議の場となった。さらに15世紀、港が堆積され海から切り離されたことで、海への行き来がさらに困難になった。1494年にフランス王シャルル8世はナポリ王位を請求してイタリア諸国へ侵攻、フィレンツェ共和国が敗退し、ピサは第二次ピサ共和国として自治権を再生する機会をいきなりつかんだ。
しかし新たな自由は長くなかった。15年間の戦争と包囲戦の後、ピサは1509年にアントーニオ・ダ・フィリカヤ、アヴェラルド・サルヴィアーティ、ニッコロ・カッポーニ率いるフィレンツェ軍に再征服されたのである。トスカーナ第1の港の地位はリヴォルノに奪われた。ピサは主として第2の地位に甘んじ、1343年創立のピサ大学の存在によって文化的役割に駆り立てられた。その衰退ぶりは人口に明らかに見られ、中世以後ほぼ不変であった。
ピサは科学者ガリレオ・ガリレイの生誕地である。未だ大司教座がとどまっている。

参考URL:ピサWiki
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by cluracan | 2012-03-21 15:41 | Discovery

【港・集落】 ハンブルク

北ドイツの重要な交易港として栄えている都市。内陸に豊富な鉱脈があり、鉛、スズ、銅や鉄など、多種の鉱石が産出する。

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6世紀には、エルベ川河口に港湾都市として存在しており、バイキングの襲来を受けている。
808年、カール大帝によって前哨基地ハンマブルクの城塞がきずかれ、
811年にはキリスト教の布教をさらに推進する目的で、砦の近くに大聖堂を建設し、「ハンブルク」としての基礎が整えられる。この大聖堂はまもなく北ヨーロッパのキリスト教文化の中心となったが、しばしば敵対する民族に攻撃された。
834年には大司教座がおかれたが、北方民族の略奪をうけて、
848年に近くのブレーメンに移された。
1189年 ハンブルクはデーン人やスラブ人の襲撃にももちこたえ、1189年には神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世から船舶航行の特許状をうける。この特許状は第3回十字軍への貢献の報償としてあたえられたもので、商業上の特権をみとめるものだった。 また、関税特権、経済特権を獲得したことで交易都市としての発展が進み、
1241年にリューベックと、
1249年にブレーメンと防衛同盟をむすんだ。これはやがてハンザ同盟の成立へとつながっていく。
ハンザ同盟の一員としてハンブルクは富裕な有力都市のひとつとなり繁栄し、
1410年、1510年、1618年と三度神聖ローマ皇帝から自由都市の特権を与えられ、自治権を獲得維持した。
1529年には宗教改革をうけいれ、ルター派やカルバン派、そしてユダヤ人の避難場所となった。しかし三十年戦争により、ハンブルクの商業は大きな打撃をこうむった。
1783年にアメリカと通商関係をむすんだことで短期間の再興をみるが、その繁栄もナポレオン戦争で終わりをつげ、
1810年にはナポレオン1世の軍隊に占領される。

参考URL:ハンブルクWiki

ハンザ同盟
「ハンザ」は古高ドイツ語。現代ドイツ語では 「ハンゼ」(Hanse)と呼ばれる。古高ドイツ語「ハンザ」は「団体」を意味し、もともと都市の間を交易してまわる商人の組合的団体のことを指した。
ハンザ同盟の中核を占める北ドイツの都市は神聖ローマ帝国の中で皇帝に直接忠誠を誓う帝国都市であり、相互に独立性と平等性を保つ緩やかな同盟だったが、経済的連合にとどまらず、時には政治的・軍事的連合として機能した。しかし同盟の中央機構は存在せず、同盟の決定に拘束力も弱かったので、政策においてはそれぞれの都市の利害が優先された。
リューベック、ハンブルク、ブレーメンなどかつてのハンザ同盟の中心都市は「自由ハンザ都市」を称して中世以来の都市の自由をうたっている。

ハンザ同盟の発祥は12世紀にまで遡ることができる。この頃、ドイツを中心に国際的な都市間交易に従事する交易商人による「ハンザ」があらわれ、団体構成員の交易特権を得るための運動を行った。ハンザ商人たちは自身の所属する都市においては都市参事会などへの参加を通じて政治に参加する有力市民であり、彼らの相互援助の都市間ネットワークを通じて都市間で条約が結ばれることにより、都市のハンザも形成されていった。その中心となったのが、1159年にザクセン公のハインリヒ獅子公によって建設されたリューベックだった。
リューベックはハンブルクと商業同盟を結び、またゴトランド島などバルト海沿岸に進出して東方植民によりこの方面の各都市に散らばっていたドイツ商人の組合の主導権を握った。
1358年には都市そのものが商人ハンザの組合に加入することで外地商人の組合である商人ハンザと、商人の本国都市の同盟である都市ハンザが統合され、ドイツ・ハンザ(Deutsche Hanse)、すなわちハンザ都市同盟が成立した。
ドイツ商人の商業活動の広がりに応じてハンザ同盟の商館の置かれる範囲は拡大し、西はイングランド(イギリス)のロンドンから東はルーシ(ロシア)のノヴゴロドまで広がった。同盟はロンドンとノヴゴロドに加えてフランドルのブルッヘ(ブリュージュ)、ノルウェーのベルゲンの4都市を「外地ハンザ」と呼ばれる根拠地とし、その勢力はヨーロッパ大陸の内陸から地中海にまで及んだ。同盟に加盟する都市は、ドイツ人の広がりを反映して必ずしもドイツ都市に限られず、15世紀の最盛期には加盟都市は200を越えた。
ハンザ同盟の加盟各市は十数名程度の市参事会によって統治され、遠隔地交易で財をなしたハンザ商人が参事会を構成する都市貴族として寡頭支配を行った。同盟全体の重要な意志決定は年に1度、リューベックにおいて行われるハンザ会議において審議された。
ハンザ同盟の扱う交易品としては、ブリュッヘを通じて貿易されるフランドルの織物のほか、バルト海のニシンが重要である。毎年、夏から秋にかけてのニシン漁期になると北ドイツの各ハンザ都市から北欧に向けてニシン買い付けの商船隊が派遣され、年間数十万トンのニシンが塩漬けにされてヨーロッパ各地に輸出された。またドイツ騎士団領からは木材、琥珀、ポーランド王国からは穀物、ロシア方面からは黒貂、熊、リスなどの毛皮が輸出された。
政治的・軍事的連合としてのハンザ同盟は、1370年、1435年の2度にわたってデンマークとの戦争に勝利して諸特権を認めさせた。しかし15世紀にはカルマル同盟を結んで北欧諸国を統合したデンマークに敗れてバルト海の覇権を失った。
同じ15世紀には、ヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合と、ポーランド王国が庇護したプロシア連合加盟諸都市の政治経済の繁栄が最盛期を迎え、これらに対するハプスブルク家と神聖ローマ帝国の支持による、それまでバルト海東岸と南岸を支配していたドイツ騎士団の弱体化、北ドイツで勢力を伸ばした領邦君主による自領内都市への圧迫などの外圧が重なって都市のハンザ脱退が続き、同盟は衰退していった。また国王、ブルゴーニュ公による国家的支援を受けたイングランド、ネーデルラントの商人が北欧へ進出してハンザ同盟の商圏に食い込みハンザ同盟の独占体制を脅かしたことは、同盟の存在意義を揺るがした。
16世紀には大航海時代によってヨーロッパの商圏の中心軸がバルト海・地中海から大西洋・北海に移ったことが大きく影響し、この世紀の終わりにはハンザ同盟は実質上ほとんど活動を停止していた。
そして、17世紀の三十年戦争による領邦国家の成立がハンザ同盟の存続に終止符を打った。わずか8都市が代表を送るのみに終わった1669年のハンザ会議を最期に同盟は機能を完全に失い、実質上終焉した。17世紀以降に入るとバルト海の貿易圏は、すでにスウェーデンとオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が主流となっており、三十年戦争によってドイツの国土が疲弊していたことも終焉に拍車をかける事となった。
ただし、ハンブルクとブレーメンだけは自立性を保ち、現在のドイツでも単独の州としてそれぞれ「自由ハンザ都市ハンブルク」「自由ハンザ都市ブレーメン」を正式名称として、かつてのハンザ同盟の名残を現在に伝えている。

参考URL:ハンザ同盟Wiki
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by cluracan | 2012-03-21 15:13 | Discovery

【港・集落】 バンジェルマシン

カリマンタン島南岸の港。14世紀にはマジャパヒト王国の支配を受ける。現在はイスラム教の影響下にある。郊外には先住民のダヤク民族が住んでいる。

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オランダは、19世紀にバンジャル王国の首都バンジャルマシン地域へ干渉をはじめた。
1850年に王家の中に対立が生まれ三つのグループに分裂した。オランダはこれを利用し、王国の政治に介入しはじめた。
1851年、オランダはその中の一つのグループを懐柔しパンゲラン・タムジドゥラーを王に任命した。しかし、その王は民衆に支持されていなかった。
1859年にグループ同士の争いからバンジャルマシン戦争が起こった。オランダは、前に擁立したタムジドゥラー王を廃位し、アンタサリ派のパンゲラン・アンタサリを擁立しようとしたが拒否された。このとき、オランダは本社機能をマルタプラへ移した。
1860年、オランダは、この地域全体(王国)を支配地域にしてしまった。
1862年、オランダは民衆に支持されているヒダヤトゥラー派のパンゲラン・ヒダヤトゥラーを捕らえ流刑に処した。しかし、戦争は終わらなかった。その後の戦争で、民衆に任命されて王となっていたパンゲラン・アンタサリは傷を負い同年死去した。その息子達によってオランダに対する抵抗運動は続けられた。

参考URL:バンジャルマシンWiki

カリマンタン島(ボルネオ島)
4世紀末~5世紀初頭 島の東部にクタイ王国が貿易で繁栄。当時の石碑が残されている。東南アジア地区における、ヒンドゥー教の最も初期の影響によって、東ボルネオのマハカム川沿いのクタイで発見されたPallava scriptの彫られた4世紀後半の日付が残る石柱が作られた。
古代の中国、インド、ジャワの書簡によると、西暦1000年位まで、ボルネオ西海岸の街は、貿易ルートの一部である貿易港であった。インド人は、スマトラ島と間のボルネオ西部の島を含めて、ボルネオを「金の土地(Suvarnabhumi) 」及び「樟脳の島(Karpuradvipa)」と名づけた ジャワ人はボルネオを「Puradvipa」あるいは「ダイアモンド島」と名づけた。
サラワクの川のデルタ地帯における考古学的な発見物により、この土地が6世紀から西暦約1300年までの間、インドと中国の貿易の中心地として栄えていたことを示している。
15世紀、明の鄭和が「婆羅」に寄航したとある。婆羅はボルネオの中国語表記。
16世紀頃 西欧の商人が渡来し始める。

参考URL:ボルネオ島Wiki
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by cluracan | 2012-03-21 14:59 | Discovery

【港・集落】 パレンバン

スマトラ島南部北岸にある街。東西交易に権勢を振るったシュリーヴィジャヤ王国の首都があった。

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この都市はかつてはシュリーヴィジャヤという仏教徒の王国の一部で古代の首都だったが、1025年にインド南部のチョーラ朝からの海賊の襲撃を受けたことによって次第に勢力を失っていった。シュリーヴィジャヤ王国の首都はやがて北方のジャンビ-マラユに移った。
1602年にはオランダ東インド会社が創立され、以降インドネシアは長年に渡りオランダの植民地であり続けたため、主要地であったパレンバンでは当時の洋式建築遺跡が見られる(オランダ領東インド)。

参考URL:パレンバンWiki

シュリーヴィジャヤ王国
425年頃 マラッカ海峡周辺の地域に外側から最初に強い文化的影響を与えたのはインドを起源とするシヴァ信仰(のちのヒンドゥー教)であり、また、スマトラには仏教が425年頃までには伝来している。
500年頃 シュリーヴィジャヤ王国の起源となる勢力が現在のパレンバン周辺で発展したものと考えられ
600年頃 中国の記録では、ジャワ島の3つの王国と同じようにジャンビとパレンバンを本拠としたスマトラの2つの王国についてふれている。
7世紀 唐の僧、義浄がインドへの旅の途次、この地に長期間滞在し、記録をのこした。彼の記録は7世紀後半のシュリーヴィジャヤについての貴重な資料のひとつとなっている(詳細後述)。
7世紀から9世紀にかけて シュリーヴィジャヤは貿易や征服を通じて地方の支配を始め、ジャンビ王国を乗っ取った。王国の伸張は、マレー文化がスマトラ島やマレー半島、ボルネオ島西部などの各地にひろがるのを助けた。
7世紀後半 南インドの文字で記された碑文資料は、パレンバン、バンカ島、ジャンビ、スマトラ南端のパラス・パセマなどから出土しており、いずれも7世紀後半のものである。これらの碑文から、当時のシュリーヴィジャヤでは大乗仏教がおこなわれていたこと、兵2万人の動員が可能であったこと、スリ・ジャヤナーシュという王が「幸ある園」を建設したことなどが知られる。
741年 「室利仏逝」の記録は、741年の朝貢を最後に姿を消している。
775年 マレー半島中部のナコンシータマラート(タイ王国ムアンナコーンシータンマラート郡)で発見された、775年のサンスクリット語の碑文には、ヴィシュヌという名の「シャイレーンドラ王家のシュリーヴィジャヤ王」が3寺院を建立したと記されていることから、この時期、シュリーヴィジャヤ王国がシャイレーンドラ王家に支配されるようになったということがうかがわれる。
741年以降 また、741年の最後の遣使ののち、インドネシアの地域から中国へ遣使をしたのはジャワ島の「訶陵」という勢力であった。この「訶陵」からの中国への遣使は670年にいったん中断し、768年に再開されているところから、シュリーヴィジャヤ王国は8世紀後半より訶陵(シャイレーンドラ朝)の影響下にあったと考えられ、この状態は9世紀後半までつづく。碑文の存在は、ジャワの勢力がスマトラのみならずマレー半島にもおよんでいることを物語る。その後、都は北西方のジャンビにうつり、中国史料では「三仏斉」と称される勢力がマラッカ海峡をのぞむ地域一帯に出現し、10世紀初頭以降、中国へ使節を派遣している。
こののち、ジャワ島のクディリ朝のダルマヴァンシャ王は、シュリーヴィジャヤの交易独占を阻止しようと、992年からマレー、スマトラ各地に侵攻した。しかし、1016年に地方領主の1人であったウラウリ王の反乱によって、ダルマヴァンシャが殺害された。その背後に、シュリーヴィジャヤの力が働いていたのではという説がある。
1025年に南インドを支配していたチョーラ朝のラージェンドラ1世の軍勢の遠征でシュリーヴィジャヤは打撃を受けて衰退した。スマトラ島はジャワのシンガサリ朝、続いてマジャパヒト王国からの征服にさらされた。同時期、アラブやインドの商人との接触を通じて広まったイスラム教徒がスマトラ島の地方にアチェ王国を建国した。
13世紀の後半までに、サムドラ王国の君主はイスラム教徒に改宗した。同じ頃シュリーヴィジャヤ王国はクメール王朝の、後にスコータイ王朝の属国になった。
1414年までにシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子パラメスワラ(英語版)がイスラム教に改宗し、マレー半島のマラッカでスルタン制が始まった。
1511年8月24日 マラッカ王国は1511年8月24日にポルトガルによって征服された。

参考URL:シュリーヴィジャヤ王国Wiki
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by cluracan | 2012-03-21 14:42 | Discovery

【港・集落】 バレンシア

古代ローマ時代から栄えた街。イスラム勢力に支配された時期があるため、イスラム文化とヨーロッパ文化が共存している。農作物が豊富に流通するほか、近くにある鉱山から辰砂(しんしゃ)が採れる。

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紀元前137年にローマ人によって建設され、「ワレンティア」(Valentia 、強さ・活力の意)と名付けられた。それまでは「エデタニア」(Edetania)と呼ばれていた。
紀元前75年にポンペイウスとセルトリウスの争いによって破壊されたが、再建された。
バレンシアは西ゴート王国、次いでイスラム教徒に支配された。
1094年、エル・シドに征服されたが、彼が死ぬとムラービト朝に奪回された。
1238年、アラゴン王ハイメ1世がこの地を征服し、以降はキリスト教国の領土となった。ハイメ1世が建てたバレンシア王国は、アラゴン王国の一部を構成した。
15世紀から16世紀には、バレンシアは地中海でもっとも重要な都市の一つであった。ローマ教皇カリストゥス3世とアレクサンデル6世を輩出したボルジア家はバレンシアの出身である。チェーザレ・ボルジアは17歳でバレンシア大司教に任命されている。
18世紀のスペイン継承戦争では、バレンシアはオーストリアの推すカール大公の側についた。
1706年、イギリス軍がバレンシアに入城したが、アルマンサの戦いでフランス・スペイン軍が勝つと、イギリス軍は撤退しバレンシアは自治権を失った。

参考URL:バレンシアWiki
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by cluracan | 2012-03-21 14:29 | Discovery


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