【港・集落】 パルマ

地中海に浮かぶマジョルカ島にある街。歴史は古く、古代ローマ時代から栄えた。白い砂浜と青い海に囲まれた美しい島で、独特の植物も多い。産物としては、タイムなどの香辛料が豊富で、近海ではサンゴが採れる。

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世界最古の大学の一つである、1502年創立のパルマ大学がある。

先史
パルマは既に青銅器時代に形作られていた。現在の市がある場所にテッラマレ(Terramare)という村があったと立証されている。テッラマレは、薪による木の構造をした住居からなる古代の村落で、体系がはっきりした四角い形であったといい、一般的に川に近接した乾いた土地の上に建てられていた。この時代(紀元前1500年から紀元前800年)、最初のネクロポリスも建てられていた(現在ピアッツァ・ドゥオモと石臼広場のある場所)。

古代
市はおそらくほぼ、エトルリア人に建てられて名付けられた。パルマ(円形の盾)は多くのローマの言語と同様ラテン語から借用したもので、Parmeal、Parmini、Parmnialはエトルリアの碑文に現れる名前である。ディオドルス・シクルス(XXII, 2,2; XXVIII, 2,1)は、エトルリア人のものをまねた円形の盾をローマ人たちは自分たちの長方形の盾に変えたと知らせている。エトルリア人野営地は丸くて盾のようであったのでそう名付けたか、パルマの位置が北方のガリア人に対する盾となっていたからだとか、説に選択肢が多い。
古代ローマ植民地は紀元前183年につくられ、同時にムティナ(現モデナ)もつくられた。2,000世帯が移住した。パルマはエミリア街道とクラウディア街道といった陸上のハブ地として重要であった。当時は集会所が開かれ、現在ガリバルディ広場となっている。紀元前44年、市は破壊され、アウグストゥスが再建した。ローマ帝国時代、帝室に対する忠節から『ユリア』の称号を授かった。
市は瞬く間にアッティラに略奪され、のちに傭兵出身のオドアケルによって彼の部下へ与えられた。しかしゴート戦争(en)の間、トーティラがパルマを破壊した。東ローマ帝国のラヴェンナ総督領の一部となり(市名を『黄金都市』を意味するクリソポリスへ変えられた。軍の財宝が市にあったためであろう)、569年以後、ロンゴバルド王国の一部となった。中世、パルマはローマと北ヨーロッパとをつなぐ主要道、フランチジェナ街道の重要な宿場となった。数カ所の城、病院、そして宿屋が増加する巡礼者を迎えるためその後数世紀に渡り建てられた。

中世前期
フランク王国の支配下で、パルマは州都となった(774年)。ほとんどの北イタリア諸都市のように、カール大帝がつくった神聖ローマ帝国の名目上の一部となった。しかしパルマを支配したのはパルマ伯位を得たパルマ司教で、最初は司教グイドブスであった。教皇領と帝国の間のその後の諍いで、パルマは常に帝国側の一員であった。パルマ司教のうち2人が対立教皇となった。大聖堂の創建者・司教カーダロである対立教皇ホノリウス2世、そしてグイベルト司教ことクレメンス3世である。 ほぼ自治権を持つコムーネとしてのパルマは、1140年前後に創設された。1183年のコンスタンツの和議後(en)、近接するコムーネであるレッジョ・エミリア、ピアチェンツァ、クレモナとの諍いが、ポー川上の活気ある通商行路を掌握する狙いで過酷になっていった。
皇帝派と教皇派の争いはパルマの特色でもあった。1213年、パルマのポデスタ(最高権力者)はゲルフ(教皇派)のランベルティーノ・ブヴァレッリであった。代々の皇帝と並んだ長い態勢の後、パルマのパピスト家が1248年に実権を掌握した。パルマは、パルマの戦いで皇帝軍と激突した結果として、皇帝フリードリヒ2世に包囲された。

中世後期から近世
1341年、パルマはミラノ公国の手中に納められた。1404年から1409年まで短期間のテルツィ家による自治時代の後、スフォルツァ家が1440年から1449年まで協力関係にあるパッラヴィチーノ家、ロッシ家、サンヴィターレ家、ダ・コッレッジョ家を通じて支配を課した。これらは新たな封建制度の一種の創設であった。市内とパルマ領内至る所に塔と城を建てたのである。これらの封土が真の独立都市国家へと進化した。ランディ家が、1257年から1682年までターロ谷を治めた。パッラヴィチーノ家のシニョーリ(領主)が現在のパルマ県東部へ拡大し、首都をブッセートとした。パルマの領土は北イタリアを除き、封建的な細分化された封土の一部としてさらに近年まで続いていた。例えば、ソリンニャーノは1805年までパッラヴィチーノ家が所有し続けた。またサン・セコンドは19世紀までロッシ家に属していた。
14世紀から15世紀のパルマは、イタリア戦争の舞台であった。フォルノヴォの戦いはパルマ領内で起きた。フランス軍は1500年から1521年まで市を占領し、その間1512年から1515年は短期間の教皇庁の幕間であった。外国人が追放された後、パルマは1545年まで教皇領に属していた。
1545年、当時の教皇でファルネーゼ家出身のパウルス3世はパルマ及びピアチェンツァを教皇領から分離させ、自身の庶子であるピエール・ルイージへ公国として与えた。ピエール・ルイージの子孫は、1731年にアントニオ・ファルネーゼが男子のないまま死ぬまでパルマ公を世襲した。公国は2代公爵オッターヴィオ・ファルネーゼの代に強化された。彼はその短くも豊かな治世のため、パルマを真の首都として市の構造を修繕もした。
1594年、パルマ大学の強化と貴族学校の創設の法令が出された。数年にわたり、戦争が貴族らの権力を削ぎ続けた。1612年、バルバラ・サンセヴェリーノが、パルマ公に対して陰謀を謀ったとして6人の貴族らとともにパルマの中央広場で処刑された。17世紀終わり、パッラヴィチーニの戦い(1588年)とランディの戦い(1682年)で打ち勝った後、ファルネーゼ家の公爵は、全パルマ領をついに手中に納めることになった。コロルノのサンセヴェリーノ家の城は、フェルディナンド・ビビエーナによって公家の豪華な夏の離宮に変えられた。
1731年、パルマ及びピアチェンツァ公国は揃ってブルボン家の手に渡った。イタリアで行われたヨーロッパ王朝政治においてパルマの宗主権が外交的に揺り動かされたためであった。新たな支配者の下、パルマは衰退に直面した。1734年、パルマの公爵宮殿の顕著な美術収集品全てが、コロルノとサーラ・バガンツァからナポリへ移された。
パルマは1748年のアーヘンの和約後、フランス影響下に下った。パルマは宰相ギヨーム・デュ・ティロの精力的な活躍で近代国家となった。彼は近代工業の基盤をつくり、教会特権に対して奮闘した。市は特別に壮麗な時代を経験した。図書館、考古学博物館、美術館と植物園がつくられ、同時にジャンバッティスタ・ボドーニによって公家の印刷所が指揮された。

参考URL:パルマWiki
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by cluracan | 2012-03-20 12:34 | Discovery


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