【港・集落】 トリエステ

ヴェネツィアからほど近い街。アドリア海の最奥に位置し、古代ローマ時代から港町として栄えてきた。冬季には、ボラと呼ばれるすさまじい強風が吹き荒れる。

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現在のトリエステ地域には、紀元前3千年紀以後インド・ヨーロッパ語族であるカルニ人が定住した。
その後、イストリア人が定住し、彼らはヴェネティ人がやってくる紀元前2千年紀までに主な文明を残した。
紀元前177年 トリエステは共和制ローマの支配下に入った。
紀元前51年 ユリウス・カエサル時代にトリエステは植民都市の地位を授けられ、その名をタルゲストゥム(Tergestum)と記録された(カエサルの著作『ガリア戦記』(紀元前51年))。
西ローマ帝国滅亡後、トリエステは東ローマ帝国の軍事中心地のまま残った。
788年 伯爵位を持つ司教の宗主下で、フランク王国の一部となった。
1081年以降、市はアクイレイア大司教のゆるやかな支配下に入り、12世紀終盤より中世の自由コムーネとして発展した。
しかしその後2世紀にわたり、近郊の強国ヴェネツィア共和国との戦争が続いた。
1369年から1372年にはヴェネツィアが事実上トリエステを支配した。

ヴェネツィアの脅威に対抗できなかったトリエステの自治都市市民たちは、オーストリア公レオポルト3世に、トリエステを彼の封土に加えてくれるよう懇願した。1382年10月、停戦合意締結が、シシュカ村(Šiška、ラテン語名apud Sisciam、現在はリュブリャナの一地区)の聖バルトロメウス教会で行われた。しかし市民らは、17世紀まで自治権の一定部分を保持した。
トリエステは重要な港湾と貿易のハブ地となった。神聖ローマ皇帝カール6世によってオーストリア領内における自由港とされ、1719年から1891年7月1日まで自由港のままであった。カール6世の後継マリア・テレジア時代は、トリエステの繁栄時代の幕開けとなった。

参考URL:トリエステWiki
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by cluracan | 2012-03-09 16:34 | Discovery


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