【港・集落】 セイラ

アラビア半島の対岸、アフリカ東北部側にある港町。アデン湾から紅海へ向かう途中に位置する。

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ゼイラ(Saylac, Zayla)のことと思われる。

1世紀に書かれたエリュトゥラー海案内記に登場する都市アヴァリタエ(Avalitae)をゼイラと同定する学者がいる(アッサブと考える学者もいる)。891年にイスラムの旅行家ヤアクービーが書いた「国の本(Kitab al-Balden)」の都市の一つがゼイラだと考えている。また、イスラムの地理学者マスウーディが935年頃に書いた「黄金と宝石の土地(Murugal al-Dahab wa-Ma'adin al-Guwahir)」にも登場する。また、988年にイブン・ハウカルが書いた「世界の構成(Kitab Surat al-'Ard)」の中で、エチオピアからアラビア半島のヒジャーズやイエメンに渡った時の港として登場する。
貿易港としての重要性は12世紀の地理学者イドリースィーや13世紀の地理学者イブン・サイード・マグリビーが言及しており、奴隷貿易でかなり栄えたと記されている。この他、13世紀の旅行家マルコ・ポーロも、アラビア半島の都市アデンのスルターンが旅行中のエチオピアの司教をイスラム教に改宗させようと無理やり割礼を行ったのでエチオピア皇帝が大いに起こった、という話の中でゼイラについても言及している。また、13世紀前半にモロッコの旅行家イブン・バットゥータもゼイラを訪ねている。
15世紀のソマリアは都市国家に近い形であり、ゼイラもそのひとつだった。ゼイラはイスラーム教徒のワラシュマ家が支配していた。ワラシュマ家はソマリアの他の都市も支配していたので、外国人がソマリ族の居住地域全般をゼイラと呼ぶこともあった。1403年(あるいは1415年)にはエチオピアの攻撃を受けた当時の王サアド・アドディンが首都イファトからゼイラまで逃げたが結局殺されたという話が伝わっている。死後、サアド・アドディンは英雄視され、その後の数世紀にわたって崇められた。
1493年、ポルトガルのペロ・デ・コビリヤンは、ポルトガル王の命によりアラビア半島からゼイラを通ってエチオピアを訪ねている。1517年と1528年にはポルトガルから攻撃され被害を受けたが、同じ16世紀にゼイラを訪れた旅行者はこの地が重要な商業都市だったと報告している。「季節を通して数千人が働き、異国人の多い町」とも言われるようになった。
16世紀まで、ゼイラは北西にあるタジュラとともに、ハラールやシェワからの荷物を輸出するための重要な港であった。しかし1630年にアラビア半島のモカがこの町を支配するようになると、ゼイラを通しての荷物に税をかけるようになったため、以前より振るわなくなった。また、この頃に海賊がゼイラの町を襲うようになり、ゼイラの知事は町の周りに土壁を設けてこれを防いだ。これらの問題からシェワは専らゼイラの代わりにタジュラを使うようになり、ゼイラの港としての価値はさらに下がった。1698年にオランダ東インド会社が水の少ない町との報告をしている。

参考URL:ゼイラWiki
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by cluracan | 2012-02-26 17:44 | Discovery


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