【港・集落】 イスタンブール

かつてはビザンツ帝国の首都・コンスタンティノープルとして栄えた街。1453年、オスマントルコに占領され、首都・イスタンブールとなった。世界最大規模の都市である。ぜいたく品が扱われるほか果樹栽培なども盛んである。

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イスタンブルのこと。
本市は、古代のビュザンティオン(ビザンティオン)、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と同じ街である。
イスタンブルの名は、東ローマ帝国時代からスラブ人らが旧市街を指して呼んでいたスタンブルという地名がトルコ人にも取り入れられたものと考えられる。

「旧市街」と呼ばれるマルマラ海と金角湾に囲まれた、ヨーロッパ大陸から突き出した半島の先端に設けられた古代ギリシアの植民都市ビュザンティオンが、イスタンブルの起源である。ビュザンティオンは紀元前667年頃にアッティカにあったメガラ市からの植民者たちによって建設されたとされている。

ビュザンティオン(前667~330)
前667年頃 メガラからの植民者たちによって建設され、彼らの王ビュザンタスにちなんでギリシア語でビュザンティオンと名づけられたとされている。しかし、それ以前に原住民トラキア人の都市があったという説もあり、建設については伝説の域を出るものではない。
196年 ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスのときに、その対立皇帝を最後まで支持しつづけたために懲罰として街は破壊されたが、すぐに再建された。後にコンスタンティノポリスの重要な建築物となる競馬場(ヒッポドローム)もこの時に建設されたものがもととなった。
4世紀にはローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、ビュザンティオンが東西南北の交通路の要衝に位置し、天然の良港金角湾を持つことに着目。
330年に、ローマ市からこの都市に遷都し、首都にふさわしい大都市の建設に着手した。

古代末期の繁栄(4世紀~6世紀)
330年5月11日 開都式。
410~413年 ローマが西ゴート人により掠奪を受け、帝国の東方でもフン族がドナウ川の北に迫っていた。防衛体制を強化するため、テオドシウス2世は現在も残っている難攻不落の「テオドシウスの城壁」を建設。
6世紀 毎年5月11日の開都祭が帝国の重要な記念日として盛大に行われるようになり、「コンスタンティヌスが新しいローマを建設した」という意識が定着した。

暗黒時代から再興へ(7世紀~8世紀)
ユスティニアヌス1世の死後、東ローマ帝国は急速に衰退し、領土は縮小していった。
7世紀 サーサーン朝、次いでイスラム帝国によってシリア、エジプトなどの穀倉地帯を奪われ、皇帝ヘラクレイオスはコンスタンティノープル市民へのパンの支給を廃止した。
674~678年 コンスタンティノープルはイスラムの海軍によって毎年包囲された。この際は秘密兵器であるギリシアの火を用いてイスラム海軍を撃退することに成功したが、相次ぐ戦乱などから市民の人口も激減し、水道や大浴場といった公共施設は打ち棄てられ、市内には空き地が目立つようになった。
717~718年にはイスラム帝国の大遠征軍がコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオーン3世によってイスラム軍は撃退された。徐々に東ローマ帝国が国力を回復させていくと、コンスタンティノープルにも再び活気が戻ってきた。
766年には人口増加に対応するために水道が修復された。コンスタンティノープルは戦車競走に熱狂していた古代の市民に代わって、絹織物や貴金属工芸などの職人や東西貿易に従事する商人などが住む商工業都市として甦ったのである。

黄金時代(9世紀~11世紀)
9世紀 東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活し、宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院や病院のような慈善施設も建てられた。
古代ギリシア文化の復活とそれを受けたビザンティン文化の振興も進み(マケドニア朝ルネサンス)、コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、またロシア・ブルガリア・イスラム帝国・イタリア・エジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、
10世紀末から11世紀初頭 帝国の全盛期、人口30万~40万人を擁する大都会となった。当時の西ヨーロッパにはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず、コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。
11世紀後半 東ローマ帝国はセルジューク朝の攻撃などを受けて弱体化するようになり、コンスタンティノープルの繁栄はいったん衰える。
11世紀末から12世紀 コムネノス王朝の時代に帝国が再び強国の地位を取り戻すと、国際交易都市としての繁栄を取り戻した。

帝都陥落と荒廃(12世紀~13世紀)
1204年 ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国と徐々に対立を深め、第4回十字軍を教唆してコンスタンティノープルを海側から攻撃させた。海側の城壁は高さも低く、コンスタンティノープルの弱点だった。4月13日、コンスタンティノープルは陥落し、十字軍兵士による暴行・虐殺・掠奪が行われた。
十字軍はコンスタンティノープルを首都としてラテン帝国を建てたが、存立基盤が弱く、ヴェネツィアの海軍力・経済力に依存していた。このためコンスタンティノープルにあった美術品や宝物は、食糧代などとしてほとんどヴェネツィアに持ち去られ、壮麗さを誇った宮殿・教会といった建造物も廃墟と化していった。
1261年7月 東ローマの亡命政権ニカイア帝国は、たまたま守備兵が不在だったのを突いて、コンスタンティノープルを攻撃、奪回した。これによって東ローマ帝国は再興されたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も4万~7万人に減少し、貿易もヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。

終焉(14世紀~15世紀)
14世紀 コンスタンティノープルはオスマン帝国軍に度々包囲され、東ローマ帝国の命運も風前の灯火となった。
1453年4月 コンスタンティノープルの奪取に並々ならぬ意欲を燃やすメフメト2世が、10万のオスマン帝国軍を率いてコンスタンティノープルを包囲した。オスマン側は大型の大砲を用いたり、艦隊を陸越えさせて金角湾に入れるなど、大規模な攻囲作戦を行なった。コンスタンティノープルの堅固な防壁は健在であり、東ローマ帝国軍とイタリア人傭兵部隊はわずか7千の兵力だったにもかかわらず2か月に渡って抵抗を続けた。
5月29日未明、オスマン軍は総攻撃を行い、閂を閉め忘れた城門からついに城内へと侵入した。コンスタンティノープルは陥落し、最後の皇帝コンスタンティノス11世は乱戦の中で戦死、東ローマ帝国は滅亡した。

イスタンブル
1453年 オスマン帝国のメフメト2世はただちにエディルネから遷都し、イスタンブルは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。
1517年 セリム1世はカイロを征服し、マムルーク朝を滅ぼした。マムルーク朝の滅亡にともない、聖地メッカ、メディナをオスマン帝国の保護下に置いたことで、オスマン帝国はスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した。これにともない、オスマン帝国のスルタンはイスラム世界のカリフとなり、イスタンブルはイスラム世界の最高指導者が滞在する、マッカ、メディナ、エルサレム(クドュス)に次ぐ重要都市となった。


参考URL:イスタンブルWiki
       ビュザンティオンWiki
       コンスタンティノープルWiki
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by cluracan | 2012-01-15 21:52 | Discovery


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